アリアドネの紅い糸 / 6



 朝方も目にした、目的地である仏師の家──と言うより掘っ立て小屋じみた建物に続く細道の前に原付を停め置くと、銀時はほっと息を吐いた。大分暗くなった空の下、灯りの入れられた小屋の姿は取り敢えずの目的を、依頼を完了出来ると言う事にまず間違いなく繋がってくれそうだからだ。
 原付に括り付けた小箱を取り外すと、懐を探って配達伝票がある事を確認した銀時は、夜の下にくっきりと浮かび上がる灯りを目指して歩いて行く。
 近づいてみて解ったが、灯りが入っているのは住居と思しき小屋の方ではなく、その隣に建てられた、少し大きな建物の方だった。そちらの方からはこんこんと乾いた音も聞こえて来る。家の主の職業を考えると、仏像を彫ってでもいるのだろう。少し大きな建物の方はどうやら工房か何かの様だ。
 玄関らしき戸には呼び鈴の類は当然ながら見当たらなかった。住居に無いものがこちらにあろう筈も無い。小さく溜息をつくと、銀時は握り拳を作って戸をこんこんと叩いてみた。余り力を入れ過ぎて、安普請の建物が壊れて仕舞わない程度に加減はしておく。
 「……」
 然し工房の中に動きはない。規則的に鳴り響く、作業の音にも澱みは無い。これは聞こえていなかったやつだなと判断した銀時はもう一度、今度は少しリズミカルにテンポを取って六回、戸を叩いてみた。不自然な音となればよもや気のせいとは思うまい。
 「…………」
 果たして今度は効果があった様で、規則正しく鳴っていた音がぴたりと止まった。気の所為ではないと言う意味で、最後の駄目押しにと更にもう二度、ノックを重ねる。
 すれば、がたがたと中から人の動き出す音が聞こえて来た。夜と言う時間の来客にか、訝しむ様な様子ではあるが、どうやらちゃんと出て来てはくれそうだ。
 少しの間その侭待っていると、がたごとと立て付けの悪そうな音や動きと共に、木製の戸が開かれた。内部から差す灯りに思わず目を細めた銀時は、然し次の瞬間には目を瞠っていた。思わず肩が跳ねる。
 開かれた戸の前に立っていたのは、土方の口にした通りの『爺さん』であった。老いたその顔が作り物である事を除けば、確かにその通りだった。
 (お面、か…?)
 思わずまじまじと見つめて仕舞う、その人物の顔は、顔の部分は、翁の面に因って覆われている。ぽかんと固まる銀時を前に、その口が動く事なく、言葉を紡ぐ。
 「どちら様かね」
 「え。あ、えーと、」
 翁の面から発せられたのは、その顔に皺と共に刻まれた年月を窺わせる様なものではなく、幾分若さを残した声だった。その事にも少し面食らいながら、銀時は小脇に抱えていた箱を慌てて、翁の面を被った男へと差し出す。
 「荷物配達の万事屋ってもんです。燕工房でこの間お買い上げ頂いた商品、江戸からお届けに上がりましたー」
 「……あぁ、」
 翁の面の男は大きな動作で頷くと、箱を受け取りながら戸の少し横へ移動する。
 「中身を確認しなければならないからな、取り敢えず入ると良い」
 促す様な腕の仕草と共にそう言うと、男はくるりと背を向けて建物の奥へと入って行く。後頭部には面を結わえた紫色の紐があり、項の辺りで結んである少し長めの髪が揺れた。
 「……じゃ、お邪魔しまーす」
 外で突っ立っているのも何だし少し寒いと思い、銀時は促された通りに建物の中へと入った。建て付けの悪さでかなり締め難い戸をなんとか元通りに閉じると、奥へ進んだ仏師の背を見遣る。
 顔は完全に全てを覆っている翁の面に因って窺えないが、髪はまだ白髪がぽつぽつ交じる程度の色だし、手も面通りの老人のものではない。恐らくはまだ還暦も迎えていない様な年頃だろう。
 その顔面を覆う翁の能面と言う見た目以外は。
 (それで『爺さん』って言ったのか、あいつも村のバーさんも…)
 朝にこの家の前で会った老婆や、土方が『仏師の爺さん』と呼んでいた事を思って、銀時は眉を寄せて密かに息を吐いた。『爺さん』の意味が翁のお面と言うのであれば、はっきりとそう教えておいてくれれば良かったものを。
 お陰で無駄に心臓を愕かせて仕舞った。夜の闇の中、背に人工の光を受けて無機質な表情を形作った能面と対峙するなど、まるでどこかのホラー映画にでもありそうなシチュエーションだ。
 (……まぁあの『爺さん』も、愕かれるのには慣れてるっぽかったし、いつも面被ってるんだろうな)
 大事そうに運んでいった箱を開けている、その姿は木くずのあちこちについた紺色の作務衣姿で、顔を覆う面さえ除けば、正に絵に描いた様な仏師──何らかの職人の風体と言えるだろう。
 建物の内部をぐるりと見回せば、やはり工房らしい風景がそこにはあった。彫りかけの木の塊や、完成間近の様に見える仏像などが建物中に所狭しと並んでいて、それなりに光量のある投光器の様な形をした灯明が地面に直接置いてある。土方のいた小屋とは異なり、村の中だけあってちゃんと電気は通っているらしい。
 道具などの入っているのだろう大きな棚や、幾つかの仏像や材木が大きな簀の子状の床らしきものの上に乗せられている他は、外見から想像した通りに地面その侭の床が拡がっている。その為にか少し冷える気がして銀時はそっと剥き出しの右腕を撫でた。
 「……ひょっとして、山の社の近くに住んでいる奴の所に行ったのかね?」
 手近に置いてあった未完成の仏像を眺めていたら不意にそんな事を問われて、銀時は「え」と思わず振り向いた。問いを発した仏師は、箱から出した新品の鑿を両手で目の高さに持ち上げて、食い入る様にその質を確認している。
 その様子からも大凡そんな問いの出て来るタイミングとは思えなかったのだが、彼は翁の面越しに鑿の角度をあれこれと変えながら、
 「煙の臭いがする。ここいらであんなものを嗜んでいるのは、あの坊主ぐらいのものだ」
 そう溜息の様な息継ぎと共に言う仏師の口調には、山に住む怪しい浪人を疎む様な厭な調子は無い。親が子を語るにも似た、少しぶっきらぼうにも取れる言い種に銀時は何となく胸を撫で下ろした。取り敢えずここでの土方は、疎んじられる様な人間と扱われていない様だ。
 鼻を鳴らして袖の臭いを嗅げば、確かに少しヤニの臭いがする。それは銀時が煙草を常習的には嗜まないだろうと伺える程度の、僅かに漂うだけの残り香だった。
 「ああ。朝に荷物を届けに来た時はあんたが留守だったから、時間つぶしに付き合って貰ってたんだよ」
 「留守……、そうか、それは手間をかけたようだな、すまない」
 「いやいや、別に気にしちゃいねェから」
 銀時の言葉に、手の上で矯めつ眇めつしていた鑿から視線を外すと、仏師はそっと頭を下げた。表情の変化しない翁の、作り物の顔が地面に真っ直ぐに向けられるのに、銀時は慌ててかぶりを振った。別に嫌味のつもりで口にした訳では無かったので、真っ向から謝罪など寄越されると少々居心地が悪くなる。
 この時間まで外を歩き回る羽目になっていたのであれば嫌味の一つや二つ以上は言ってやりたい所だったろうが、その、曰く『煙草を嗜む坊主』こと土方の元で時間を潰す事も出来たので、もう今更、長時間留守だった仏師に恨み言を言う気は無い。
 (まぁこのオッさんだかジーさんだかが留守にしてなきゃ、あいつに会う事も無かった訳だしな…)
 特に何か重要な話をしたとか充実したとかそう言う訳でもないのだが、無駄に過ごした筈の時間は、然し悪い時間では無かった。
 …とは言え、だから良かった、などとは、己ならば思うまい、と銀時は感じていたのだが、そこの所の奇妙な違和感を細かく説明しても仕方あるまい。
 ともあれ、気にしてはいない、と言うのは本当である。頭を起こした仏師はほっとした様に「ありがとう」と言ってもう一度軽く頭を下げた。
 大袈裟だなと思うが、正直、面越しでは表情や感情を判断するのは難しそうだと思っていた所である。仏師の方もそれを解っていて伝わり易い言葉や態度を選んでいるのかも知れない。
 その顔を覆う面自体は至って普通の、翁のものだ。白い作り物の髭と眉とが付けられており、皺深い顔には笑っている様な表情が刻まれている。三日月型に細められた目は好々爺の様に見えるのだが、無機質な印象も相俟って、まじまじと見ると少々不気味だ。
 「この面が気になるかね」
 ついつい見入っていたら案の定かそう指摘され、銀時は頬を掻いた。不躾に過ぎたのは己で解っている。初対面の人間には失礼な態度かも知れないが、明らかに現状不自然なのは、奇妙な面を人前でも外す気の無いらしい仏師の方である。
 「……まぁ多少は。気ィ悪くしたんなら謝るよ」
 正直にそう言えば、仏師は眺めていた鑿を箱へと戻し、「よくある、つまらん話だが」と前置いて口を開いた。
 「昔、酷い火傷を負った。かなりの大火事でな。家族もそれで喪った。私はただ一人辛うじて生き延びる事が叶ったのだが、少々酷い顔になってね。人を驚かせて仕舞う様だったから、面を被る事にしたのだ」
 「……」
 確かによく聞く様な話ではあったが、そうだな、と同意する訳にも行かず、銀時は小さく頷いて理解を示す程度に留めておいた。人を襲う不幸は色々ある。相手が同情も同意も反論も求めていないのであれば、無責任な感想など口にするべきではない。
 とは言え元より、今更それらの共感や言葉など必要としていないのだろう。淡々と紡いだ言葉からはそんな気がする。
 仏師はにこやかに微笑んだ侭の顔で、銀時の態度を気にした様子もなく再び動き出した。棚の一つを物色すると小さな、墨壺を持って戻って来る。
 「坊主は元気にしていたかね。まぁ、他人に構っていたのならば元気と言う事なのだろうが」
 そう苦笑しつつ問う声の調子には矢張り、全くの他人同士の村人に向けるものでは無さそうな気配が漂っている。だが、家族や親類縁者と言う事は、今の仏師の話からしてもあるまい。
 「あー…、普段を知らねェから正確には言えねぇけど、普通に元気だったんじゃね?つーか、知り合い?」
 「少し前に拾ってな。時々遣いを頼んだりしていた、…そうだな、弟子の様なものかも知れん。尤も、彫刻を学んでいる訳では無いし、あちらはそうとは思っていないだろうが」
 言葉の後ろに乗ったのは、今度ははっきりとした笑い声だった。問いた以上はと、無言で続きを促す銀時の方をちらと見ると、仏師は配達伝票に面越しの視線を落としつつ、まるで呟く様に続ける。
 「浪人の様だし、怪しい奴ではあるが、悪い人間では無さそうだったからな。山のあの家は元々神社の神主の家で、神主が亡くなった後に私が譲り受けて使わせて貰っていたんだが、村人には私の遠縁と言って、そこに住まう様にと勧めたのだ」
 だから、一応は気にしておく必要があるのだ、と付け足すと、仏師は自らの親指を墨壺に突っ込み、滴る墨を少し紙に吸わせてから、指の腹を使って配達伝票に拇印を捺した。次いで筆を持つとさらさらと書き付ける。
 「戦の後、行き場を喪った者など山と居る。戦が無くとも素性の確かでは無い者など山と居る。そう言った者に関わって、放っておく事は、容易であり最良の選択の筈なのに、なかなか難しい」
 言って、渡される伝票を銀時は受け取った。受け取り人のサインの部分を見れば、花押の様に複雑な模様が書いてある。職人としての号なのか、文字は判読出来そうもない。その横に捺された拇印もよく解らない形状になっていたが、まあ受け取ったと言う証明なので別にその出来は問題では無い。
 「やっぱ仏さんなんて彫ってるだけあって、人格者みてェだな」
 伝票の墨を乾かす様にひらひらと振りながら、銀時。軽い調子だったが、受けて、仏師は墨で汚れた指を拭いながら、翁の面に包まれた頭を大きく左右に振ってみせた。
 「人間とは手前勝手なものだ。私がこうして仏を彫っているのも、それを求められた所に納めるのも、仕事や芸術家としての意欲ではなく、ただの──家族を喪った己への慰みから始めた事に過ぎない。人を、野良猫に餌をやる様な感覚で救えるなどと思い上がる事は到底出来ん」
 そう、紡がれた言葉には彼がこれまでの人生で負ったのだろう重みが滲み出る様な、苦い味わいをもたらす意味が恐らくは潜んでいた。
 言う道理は解る。贖罪でも希求でも、大体の場合は自己満足であって、自分しか救われない事の方が多いものだ。如何にも怪しく見える浪人ひとりに親切心を見せたところで、面倒事や厄介事が増えるだけの事の方が殆どだろう。
 軽口のつもりが、思いの外に重い空気になって仕舞った気がする。銀時は、まだ墨の半乾きの伝票を構わず二つに折ると懐に仕舞い、目の前で完成を待つ様に佇む、作業中と思しき彫りかけの仏像を見下ろした。その顔のディティールは曖昧であったが、柔和そうな表情で座している。
 どれだけ見つめてみたところで明確に何かが解る訳ではない。何しろ銀時は仏像にも芸術にも明るくは無いのだ。ただ、手をかけ彫られていると知れるそれらが、単なる惰性で作られているものには見えない気はした。そこからは、少なくとも何らかの情や想いは感じられる。
 「なら尚更、こっちで仏さんこさえて念仏唱えてやらんでも、皆あっちでよろしくやってるって思う方がマシだと思うけどな」
 だからこそ出た二度目の軽口に、果たして銀時の先頃思った通りに仏師が気分を害した様子は無かった。彼はまたしても大きい動作でかぶりを振る。
 「祈るのも願うのも手前の為だ。誰かの冥福を祈るも、誰かの幸福を祈るも、手前自身の罪悪感や浅ましさや後悔の念の生むものに過ぎない。矢張りどうしたって人間は手前勝手な生き物だよ」
 「……それでも、あいつは多分あんたに感謝はしてると思うけどな。あんたの家族については解らねぇから気休めを言うつもりはねェが、こんな穏やかな顔の仏さん彫れてんだから、悪い様には思ってやしねェんじゃねェかね」
 死者は答えないし呼びかけてもくれない。悼む思いはあれど、喪ったものはもう背負う事が出来ない。銀時はそれをよく知っている。
 喪った、或いは失ったものに囚われ続ける事を全て不幸と断じる気はないが、不毛だとは思う。だが、それもまた理屈の上の事だ。実際の感情や感傷がそれを割り切るにはどうしたって時が要る。
 「皆解っていても、なかなか楽にはなれぬものだよ。その助けにする為に、して貰う為に、手前勝手は承知でこうしている。あの坊主も何かを抱えてこんな辺鄙な村まで来た様だが、それをすら理解してはやれない。差し伸べた手ですら自己満足であって、彼の為になったのかすら解らない。君の言う通り、精々に密かな感謝を思う程度だろう」
 それは互いに何の糧にもならぬものだが、と続けると、仏師は恐らく、翁の笑顔の面の向こうでも穏やかに微笑んだ。そんな気がした。
 彼は恐らく割り切った側の人間だ。乗り越え途上であっても、割り切る途にあるからこそ他者の為に心を砕く事が出来ているのだ。それを客観的に傲慢な自己満足と自己批判する事で、未だ乗り越える山が残っているのだと戒めを得ている。尽きぬ後悔を抱えながら他者に手を延べる、まるで求道者や修行僧だ。
 (家族への手向けか、自分への慰めか。どっちも似た様なもんだとは思うが…、)
 それでも、しない屁理屈よりは、する無駄事、負う厄介事だ。何かと性分でそう言った状況を被り易い銀時としては、同意に似た気持ちが涌こうものだ。銀時はこの、翁の面の仏師に少しだけ、好感に似た親近感を憶えたのだった。





銀さんってお年寄りに悪態つきつつ優しいと言うイメージが凄くあります。

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