アリアドネの紅い糸 / 8 昼間も見上げた、山中の神社へと続く細い石段を見上げて、溜息をひとつ。念の為に原付は茂みの中に隠しておいた。気休め程度ではあるが、少なくとも泥棒狼藉を働く者が居たとしても見つけは難くなる筈である。 今度はきちんと抜いたキーを袂に放り込んで、一応は辺りに誰の、何の気配も無い事を確認してから石段を昇って行く。辺りは星や月明かりの届かない事も手伝って、深夜と見紛うばかりの暗さだが、時間帯的にはまだそう遅くは無い筈である。少なからず他人の家を訪れるのに非常識と誹られる事はあるまい。 神社の横の叢──に紛れそうな細い山道を、暗い中何とか苦労して見つけ出した銀時は、つい一時間かそこら前に通った道を逆戻りしつつ、さて果たして何と言ったものかと思索する。 土方は社交辞令的にああは言ってくれたが、まさか実際にのこのこと銀時が戻って来るとは欠片ほども思っていまい。 (原付の燃料を抜かれて困ってるんだ、って、昼間の黒猫がどうとか言う言い訳より苦しいじゃねェか。つーか何なの、何の目的で燃料抜かれねぇとならねぇんだよ…) 田舎だからそう言う事もある、と仏師には言われたが、どうにも納得がいかないと言うのが本当の所だ。銀時は何となく夜道の背後を振り返ってみたが、無論の事誰の、何の気配もそこには無い。物盗りに狙われる憶えも無ければ理由も無い。ついでに言えば盗られるものですら殆ど無い。 幾らのどかな天領とは言え、余所者が文明の利器を持っている事が珍しい、とは思えない。田畑には機械(からくり)の農具もあるし、村には車だって走っている。古びた原付一台など盗んでも仕様が無いだろうとは思うのだが。 (それに、普通は盗むとしたら、乗って逃げるか運んで逃げるかのどっちかだろ?燃料だけ抜いて道端に落とすって、盗むのを失敗したって言うよりは寧ろ、イヤガラセ的な感覚じゃねェのか) 然しそれだと益々解らなくなる。余所者とは言えど銀時は放っておけば即日いなくなる様な、ただの配達人だ。原付を壊すなり走れなくなりすると、付近での滞在時間が増えるだけだ。早く追い出したい様なイヤガラセ行為を目的としているのであれば逆効果になって仕舞う。 (まさか本当に、旅人を捕まえて食う文化とか風習とかあったりしねェよな?) 疑いはした所で、どこぞの怪談話や都市伝説にありそうな、荒唐無稽な想像は逆に怖さがなくて、銀時は馬鹿馬鹿しいその考えを小さく笑い飛ばした。 ともあれ、である。土方はぶっきらぼうな男ではあったが、悪い人間では無さそうだった。銀時が困っている事を正直に話せば、玄関の屋根ぐらいは借りれるかも知れない。 初対面の人間相手には図々しいかも知れないが、当たって砕けろ、の精神だ。最悪、もしも断られたり難色を示されたりしたら大人しく神社の軒を借りようと思ってはいるが、矢張り出来れば夜露と夜風は凌ぎたいものだ。若い時分でも、出来れば露天での野宿は避けていた。本当に何も無い山中、外で眠ると言うのは、想像する以上に心身を摩耗するのである。 やがて、道の先に灯りの灯った小屋が目に入って、銀時は密かに胸を撫で下ろした。夢でも幻でもなく、それは確かに在った。 断られた時の想像などしてはいるが、何故か勝算は高いと言う奇妙な予感を感じながら、小さく深呼吸をすると、仏師の小屋よりは建て付けのまともそうな戸を遠慮がちに叩く。 果たして、僅かの隙間を空ける事でノックに応じた土方は、銀時の姿をそこに認めるなり何処か愕いた様子で戸を直ぐに開いてくれた。 「……なん、」 「いやあ、その…」 何の用だ、なのか。何で、なのか。息を呑んだ様子の土方の疑問を遮る様に溜息をつくと、銀時は出来るだけ簡潔に、ここに至るまでの経緯を説明した。配達を終えたは良いが、原付から燃料が抜かれて仕舞ったのだと。出来るだけ態とらしく聞こえ無い様にして。 「…つー訳で、悪ィんだが一晩玄関先で良いから借りられたらな、とか…。あぁ、勿論無理ならそれで良いから。元々、神社の軒を借りようかなって思ってて、」 未だ目を丸くした侭でいる土方に、矢張り図々しかったかなと思いながらも銀時は正直にそう説明した。端から逃げ道を塞いで、良心に踏み込んでいる様な物言いはどうなのだろうとは思ったのだが、それでも仔細正しくそう告げたのは、矢張り心の何処かで、土方が断ると言う想像が出来なかったからに他ならない。 「……解った。そう言う事なら構わねェ。取り敢えず上がれ」 その理由と意味とを己の裡に探るより先に、土方は小さく息を吐くとそう言って家の中へと戻って行き、銀時も突っ立っている訳にはいかずその後を追う。 「あ、マジで土間で良いから」 「土間になんか出したら布団が汚れるだろうが。多少狭いが、まぁ何とかなるだろ」 玄関戸を閉めながら、炊事場兼用になっている土間を見回して言う銀時に、然し板の間に上がった土方は溜息を吐いて言うと、机を部屋の角のギリギリまで運んだ。どうやら布団まで貸してくれるらしい、思いの外の好待遇に、銀時は申し訳の無さと降って湧いた様な幸運とを一緒くたに噛み締める。 「そう言や、飯は食ったのか」 「……え。いやまだだけど、流石にそこまで、」 世話になる訳には、と銀時が言うより先に、再び息を吐いた土方は土間へと下りると、手早く水桶から掬った水でで手を洗い、釜の蓋を開けた。ちらと覗いてみれば、どうやら中身は炊いた米の残りらしい。 「生憎塩しかねェが」 そう言うなり、湿った手のひらに塩をさっと振り、釜の中の米を慣れた手際で丸く握ると、土間に茫然と立ち尽くしていた銀時に向けて「ほらよ」と差し出して寄越す。 何これ?と訊き返すまでもなく塩の握り飯である。土方の握ったそれは綺麗な丸い形とは行かないものだったが、握り飯である事には変わり無い。銀時の腹は思わず音を立て、手は自然と白い握り飯を受け取っている。 「……イタダキマス」 「おう」 何度見ても手の中のそれはただの白い、塩をまぶしただけの、小さな拳サイズの握り飯だ。質素、或いは簡素としか言い様のないものだが、土方はどこか得意気に頷くと、再び手を洗って板の間へと上がって行く。 ブーツは脱がない侭、板の間の端にすとんと腰を下ろした銀時が握り飯に齧り付けば、それは幾度も反芻した通りに塩をまぶした握り飯にしか矢張り過ぎなかった。過ぎなかったが、空腹の腹にも、未だ何処かふわふわとした奇妙さを保った侭の心にもじんと染みた気がして、思わず夢中になって口を動かす。 (……自炊とか出来る奴だったのか…、って言うか、そりゃこんな所に一人で住んでりゃ当然だよな…。て言うか真っ先に浮かぶ感想がそれって、人としてどうなんだよ俺) 白米は白米だし塩は塩だ。だがその質素さこそ、空腹の腹には覿面なのも当然だ。だが、飯を振る舞われたと言う事よりも、それを土方と言うこの男が握って寄越してくれた事の方が何故か重要に思えて、銀時はあっと言う間に塩の握り飯を平らげた。 「旨かった。ごっそさん」 親指についた米粒を食べながら振り向いて言えば、土方はその場に佇んだ侭、少し笑った様だった。気にするな、と仕草だけで示すと、一組の布団を押し入れから引っ張り出す。 「見ての通り布団は一組しかねェからな。掛け布団と敷き布団、どっちが良い。あぁ、枕は貸せねェから悪ィが諦めろ」 言いながら土方は、掛け布団と敷布団とを分離してみせる。どちらも小屋同様に薄く質素な品の様だったが、正直屋根ばかりか布団まで借りる事が出来るとは思っていなかった銀時である。 「あー…どっちでも良いし、無くても良いし、何なら添い寝スタイルでも構わねェけど」 故にそう正直に言えば、土方は寸時息を呑んで目を見開いて、それからかっと顔を紅くした。 「…あ、」 ──何故かそうだとはっきり解って仕舞った。銀時は次の瞬間に奥歯をぐっと噛み締める土方の顔を見ていられなくなって咄嗟に顔ごと目を逸らした。 からかわれたと憤慨したのではなく、それは、そう言われた経緯なり経験なりの憶えのある──もっと深い意味を知っている、そんな表情で。銀時は何故か涌いた狼狽を必死で呑み込んだ。 「………気色悪ィ冗談抜かしてんじゃねぇ」 土方とて恐らく、上手く躱せなかったと己に悔いたのだろう。暫しの間の後、絞り出す様にそう言うと「てめーは敷布団を使え」と、少しだけ鋭くなった声音で、殆ど独り言の様に言った。 「あぁ、さんきゅ」 悪ぃ、と謝るにはどうにもおかしな気がして、銀時は拡げられた敷布団をちらと見遣ってから、漸く思い出してブーツに手をかけた。 (…………多分、気色悪ィとか冗談だろとか言うよりも、『そう言う事』に慣れてるって事か) 少なくとも、男と同衾すると言う事を、冗談よりも本気の誘いとまず取って仕舞い、恥じらいを憶える程度には。 (そう言う、感じには見えなかったんだけどな) ブーツを足から抜きながら、銀時は己の思考が一人でぐるぐると空転するのを、止めた方が良いのにと思いながら見ていた。 土方十四郎。そう名乗った男。見覚えも記憶も無い筈なのに、銀時の心の裡で何かを思わせる男。 刀とそれを振るう確かな腕と共に、まるで隠れる様にして密やかに住まう男に対して、銀時の得た情報はほんの僅かの事でしかない。彼の人生から見れば断片にも満たない程度の、ほんの数時間分程度のものしか無い。知らない。 故に、そこに生じた何らかの味わいの正体を、銀時は探る術を持たない。否、恐らくはそもそも知ってすらいないのだから、これは単なる錯覚かそれ以下の感情の発露にしか過ぎないのだ。 (………何なんだ、本当に) いつの間にか乾ききっていた喉の奥で呻く。 それは不愉快と言う感情に似た、ものに恐らくは近かった。だからこそ理解に苦しんで、銀時は思考を、不穏な予感を纏った下世話な想像を無理矢理に振り払った。 。 ← : → |