通り雨 #3



 通り過ぎる迄の時間は、漫然と待つには長くて持て余す。


 足音が遠ざかり、廊下と階段を隔てる戸が閉じる重たい音を耳にするのと同時に、銀時はへなへなとその場に座り込んでいた。腰が抜けたと言うより脱力した。何か、堪えていた緊張がぷつりと切られた時の様に、疲労感の重しの侭がくりと項垂れる。
 「…………………何だよ、アレ……」
 溜息にもならない重さを伴った感慨の侭にそう、やっとの思いで吐き出し、銀時はしゃがみ込んだ侭で自らの頭を抱えた。湿気を含んで常よりボリュームの増した風に感じられる髪を掻きむしって呻く。
 (反則だろ。無いだろ。ナイナイ…。アレはナイナイ……)
 無い、とひたすらに連ねる無心の抵抗の向こうでは、脳裏に焼き付いた光景がちかちかとフラッシュバックしている。無い、どころかアリアリだ。易々消えてくれそうもない存在感だ。
 見慣れない、黒い色彩を髪以外の上体から全て取り払っていた姿。白いシャツは雨に濡れて肌に貼り付いて、肩や腕の肌色が僅かに透けていた。
 部屋の灯りに晒されるまでそんな様に気付かなかったのは実に不覚だったと言うべきだろうか。
 いやだから何が不覚なんだよ、と己にツッコミを叩き入れながら、銀時はその先に続く記憶の光景に顔を顰めた。熱が頭に何故か昇るのを自覚する。
 ベルトを外したのは腰を緩める為だ。濡れて気持ち悪かったのだろうシャツを引っ張り出そうとしただけ。他意は無い。寧ろあって堪るか。
 「アレは天然だ……その癖反則級の変化球だろ…」
 色々と残念な心地になって呻く。髪を肌を衣服を濡らしながら下衣を緩めようとしている姿は、思い起こして描いてみる本人の表情からすると、何でもない所作の一つだったに違い無い。
 だが、土方に興味以上の興味を抱いている自覚の僅かにあった銀時にとっては、実に目の毒──或いは保養──にしかならない有り様だった。
 例えば、そのつもりで部屋に招いたカノジョが入浴しようとしている時に、それに気付かず脱衣室を開けて仕舞った時。の様なシチュエーションと言う感じの。
 (……何だよそれ、俺寒ッ!!)
 喩えて想像してからぶんぶんと頭を振る。そんな甘いものではない筈だ。アレは単に濡れた衣服を緩めていただけであって。
 (ていうか問題は、野郎が脱衣めいた所作をしかかってた所を目撃しただけで、なんかこう……〜ムラっとしちまった俺の方だと思います!〜アレ、作文?)
 幸いダイレクトに息子が反応する事態にはならなかったが、脳の何処かが分泌したのは紛れもない歓喜やら欲情──つまるところ『ムラっとした』成分そのものでしかない。
 そんなに最近餓えてましたか。確かにご無沙汰ではありますが。思って嘆息する。同じ屋根の下に神楽や新八と言う未成年の、庇護すべき少年少女が居る環境と言うのは、自然とそう言った類の行為や欲から銀時を遠ざけていた。
 今までは誰に憚る事もなかった、一人暮らしの男として『そう言う』事情を解消する頻度も自然と減った。そして当然ながら神楽に対してそう言った欲求を抱く事はないし(仮に思ったとして、返り討ちに遭うのがオチである)、同居している事が原因で持て余す事も無い。幸いにと言うべきか、住居を置くかぶき町と言う場所柄、そう言ったニーズに応える商売はごまんとあるのだ。
 ……とは言え、風俗とは所詮先立つものがあっての娯楽である。日々自転車操業で生活費や家賃の取り立てにも悩まされる生活を以前にも況して送る羽目になった銀時にとって、段々その優先順位が下がって行くのは致し方のない話だ。
 未成年に囲まれた生活。慌ただしい日々。増える厄介な顔見知り達。何れの要素も銀時に「ご無沙汰」と言わしめるものでしかない。代わりに得た充足故にか、特に不便は感じていなかったそれが今更になって、予想もしない角度から存在感を知らしめているこの現状。
 (おかしくね?だからって野郎にムラムラするとか……ありえなくね??)
 何しろ。相手は女どころか必要以上に男前なお巡りさんであり物騒極まりない短気な性格の侍だ。顔だけはそこいらの女以上に整っているが、丈は同じくらいだし、体格もほぼ変わらない。そして当然股の間には同じモノがついた立派な男だ。
 況して外見や性別は兎も角、性格は磁石の同極同士と言うに相応しい、凄まじいまでの反発──もとい拒否反応を示している。
 幾ら餓えているだのご無沙汰でしただのと言い訳をしてみた所で、通常では有り得ない反応だ。感情的な実感が僅かでも無ければ、センサーの故障かと疑って泣きながらそこいらの風俗店に駆け込んでいた所だ。真っ当な心地であったら到底確認せずにはいられないだろう事態だ。
 「……マジでか」
 酔い潰れて、目を醒ましたら見知らぬホテルで見知らぬ人間と寝ていました、ぐらいの疑わしさや衝撃を、不承不承言葉にして吐き出した銀時は、収まりの悪い銀髪をぐしゃりと片手に握り込んでゆっくりと顔を上げた。
 見上げた机の上には、手入れを丁寧にされ使い込まれている事の知れる、業物の刀がある。
 惹かれる様にふらりと上体を起こした銀時は、ふと伸ばした指がその柄に触れる寸前で、然し動きを停止させた。
 侍と言う、刀剣に近い身の上であるとは言え、銀時には特別刀の善し悪しと言う程の目利きがある訳ではない。戦場ではなまくらでも名代の銘刀であっても、その役割に何ら違いなどない。もっと極端に言えば刃でなくとも命は断てる。拳一つ脚一つでも敵を屠る事は容易に可能だ。
 刃の重さや刃紋や打ちを見て、良く斬れそうだとか、高級そうな拵えだとか、手入れがよくされているとか、その程度の判別はつく。だが、所詮の所刀は刀、実用に足らなければ意味がない。結局は大仰な銘よりも実用性があるか否か。その一点に尽きる。斬れ味ではない。実用性だ。
 幼い頃に刀を手に取った理由もそんなものだった様に思う。本能で知っていた、刀とは自らを護る為の鎧だった。斬れるか斬れないかが問題なのではない。そう言う意味で言うならば木刀だって同じだ。美しかろうが、武骨だろうが、その在り方は『何かを護る』ものでしかなく、それさえ叶えばそれだけで良かった。
 だが、これは侍としての性なのか。綺麗な刃に、魂のない形代に、自然と惹かれるものがある。綺麗なものにはそれだけで力があると言う。逞しくしなやかな刃はそれだけで勁く美しい。真っ直ぐな信念を魂に抱いた人間はそれだけで勁く美しい。
 そうして無意識に伸ばした指は、触れずそこで躊躇う様に止まった。
 誘蛾灯に群がる羽虫の様に。本能的に惹かれてやまないそれに、然し届きそうな寸前で踏み留まる。それは理性なのか、或いはよく似た道徳や良識なのか。灼かれる前に惑う。これは何の錯覚なのかと。
 好ましいと認識して仕舞ったものに手を伸ばすのに、ごもっともな言い訳や理屈が必要になっていくことが、歳を重ねた末の知恵だと言うのであれば。それは酷く狭量でつまらない世界だ。
 (……まぁ。迷うくれェは良いよな。見てるくれェは良いよな。別にアイツをどうこうしたいとか、どうして貰いてェとか思ってる訳でもねーんだし)
 下半身に直接来るのは堪えても、実際ムラっとした事実を認識しておいて、何良識的な綺麗事を並べているんだろうかとは思ったが、困った事に上手く反論出来る言葉が見つかりそうもない。
 肯定に限りなく近い保留。俺も大概怖がりだね、と浮かんだ苦笑の先で、指は刀に触れぬ侭に折り畳まれていた。
 これがどうやら答え。今出せる範囲での、確約のない痛み。
 「…お前がどう思うか、なんて……考えたくも無ェな」
 左の手で首の後ろをがり、と引っ掻いたその時。心の閉塞の中で鈍った聴覚が複数人の足音をふと捉えた。一息に現実に引き戻される。
 (え)
 ざ、と背筋を怖気が走り、銀時は事務所の扉を勢いよく振り返る。情けない事だが、ピンク色になりかかっていた脳の理解は相当に遅く、回転数も常の半分以下に弛んでいたのは確かな様だ。
 だが、一度そうと認識すれば、戦場で鍛えられ慣れ親しんだ危機察知能力と索敵能力とは直ぐに応えて働きだす。階段と廊下の間にある鉄扉の開く音と共に、談笑しながらの足音がひとつ、ふたつ、みっつ──いや、四つ。
 それらが当然の様にこの事務所跡に向かって来るのは銀時には解っていた。
 そして目の前には、己のものではない刀が一本と、濡れた床と椅子と二つの湯飲みと、脱ぎ置かれた衣服。
 猶予は十数秒。もっとあっても一分の半分には満たない。銀時の決断と動作は、早かった。
 
 *

 がこん、と自販機が音を立て、取り出し口に見慣れた箱を吐き出す。まずは釣り銭を拾ってから、余裕を持って身を屈めて土方はいよいよ念願の煙草の箱を手に取った。
 脳は確かにヤニ不足を訴えて来てはいたが、何処か散漫な侭になった意識が殊更挙動を重たくさせる。下らない上につまらない思考は時間の無駄だし精神衛生上面白いものでもない。解ってはいたが、ひたひたと響く雨音がまるで土方の心をノックする様に打ち付けて来ている様で落ち着かない。
 小銭を札入れに放り込んで仕舞い、煙草の封を切る。とん、と傾けた箱から一本をくわえ出し、箱をポケットに押し込む代わりにライターを取り出した。部屋に置いてあるマヨ型ライターやジッポーではない、安物の100円ライターだ。捕り物などで紛失したり破損したりする事も珍しくない為、こう言った使い捨てを持ち歩く事もある。
 湿気の心配を裏切って、火はすんなり点いた。吸った酸素と燻る葉の臭いに我知らず顔が弛むのを自覚しながら、土方は自販機の横に置いてあったベンチに腰を下ろした。目の前には街頭用の灰皿もあり、廊下と言うよりちょっとした喫煙コーナーだ。
 廊下の広さや作り自体は下の階と何ら変わりない。ただこちらの事務所には人が詰めているらしく、少数人数の動いている気配がし、時折電話の鳴る音もしている。胡散臭いことこの上無い商売と言え、平日の昼過ぎと言う時間帯を思えば、勤務中なのは当然か。
 ベンチの脇ではこんな薄暗い場所にも拘わらず健気にも観葉植物が葉を青々と茂らせていた。こんな木一本程度では到底ヤニの処理などしきれそうもないが。まあ場末の事務所と言う雰囲気はそんなものなのかも知れない。埒もない思考を持て余しながら、天井に向けて煙を吐き出す。
 がしゃん、と乱暴に机を叩く様な音。慌ただしい電話のベル。恐喝まがいの声。「明日までに払えねぇんなら宇宙にでも何処にでも売り飛ばすよ?」
 (……高利貸しか何かか)
 うらぶれた雑居ビルのテナントには相応しいと言うべきか。ヤクザ紛いの小悪党(想像)がぎゃんぎゃんと吼えたてている声が未だ強い雨音に紛れて煩い。返済が出来なければ内臓を売れとか言うお約束の台詞も飛び出して来そうだ。
 弁護士や役所に相談すれば違法なのは知れる類の商売だ。借りる方も、貸す方も、そんな事は承知の上でやっている。比較的に低リスクなのを承知の上でやっている。目の前で不当な暴力でも振るわれでもしない限り、警察──しかも対攘夷活動がメイン──の出る幕ではない。
 ではアイツならばどうするだろうか、と、つい反射的に思いついた疑問に苦虫を噛み潰して「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てる。
 恐らく、関わりのない限りは黙って見過ごす。通りすがる誰にでも手を差し伸べ続けられる様なお門違いの博愛さなぞ誰も持ち合わせてはいない。それに、あの男はそこまで世の中を清廉で尊いものだと思ってはいないだろう。寧ろ逆に、清濁を併せ逞しく人々の生きる様が──命の生き汚い美しい有り様を眺めるのが好きな節がある様に思える。
 全てが大勢。全てが同じ様に面映ゆい世界。その中の、ほんの少し、両の手と刀の届く所だけが彼の男の世界だ。土方にとっての真選組の様に、それが銀時にとっての『世界』。
 志を似せ、並んだものは決して相容れない。平行線の様なものだ。向かうベクトルが同じであっても、道が一本違う、それだけで決してそれは交差する事はない。つまり、関わらない限りは淡々と過ごせる、それだけのものだ。
 (………組以外の他人なんざ、俺の手に負えそうも無ぇ)
 実際目の当たりにしたら拍子抜けするに違いない。どうせ互いに相容れない存在なのだ。
 思えば滑稽でしかなく、では何故偶さか予期せぬ遭遇をした男に、いつもの衝突とは趣の異なる苛立ちを憶えるのかと言えば、答えはまるで知れない。
 こんな感情は恐らく、自分が他人に向けるものとしては相応しくないのだと思う。沖田辺りが聞いたら、懐かない野良猫は人間に媚びる様になった時点で生きられやせんぜ、とでも嫌味にして投げて来るだろう。
 期待は何処にもない。答えも何処にもない。たった一度、気にくわないが認めてはいた男に名前と存在を認識されて、その事に少し浮かれた。──きっとそれだけの話。
 (別にダチとか仲間になんざなりたい訳じゃねェんだ。やめやめ)
 友達、と想像し、イコールで銀時の姿を繋いだ途端背筋に怖気が走り、土方はかぶりを振った。短くなった煙草を灰皿に押しつけ、二本目の煙草をくわえる。
 その瞬間、階段の戸が重たげな音を立てて開いた。つい跳ねそうになる背筋を押しとどめ、咄嗟に腰に向けた意識に密かに舌打ちをする。刀は隊服と共に下階に置いて来て仕舞った。
 (…って別に。幾ら後ろ暗い商売だとしても、直接警察(俺)の出る幕じゃねェんだ)
 わざわざ無意味に喧嘩を売る必要など全く無い。ここは知らぬ振りを決め込もう、と一つ頷き、土方は無言で煙草に火を点けた。椅子に背を深く預け、リラックスしきった体勢を取る。
 階段を上がって廊下に入って来たのは、二人連れの浪人風の男だった。チンピラ、と言う種族分類で恐らく間違ってはいまい。
 気付かれない程度の横目の観察で、体格や顔からして四十代に近いだろう年令頃かと察しを付ける。攘夷系の人相としては憶えが無い。燻った浪人の多い世代からして、浪人くずれの類だろう。
 佩刀はしていない。だが懐に二の腕の長さ程度の刃物と思しき棒状のものを隠している。着物の不自然な皺から直ぐに解る事だ。小太刀か匕首か。如何にもな得物だ。
 (……だから。別に喧嘩売る訳じゃねーだろ。職業病にも程があるぞ俺)
 「お?」
 世間話らしい事を喋っていた二人連れが、そこで漸く土方の姿を視界に認めた。観葉植物の陰になってよく見えなかったらしい。
 二人の男は不審そうな顔を無遠慮に投げかけつつ、威嚇する様な風情で土方の前に立った。
 「んん?」
 唸りと共に向けられた睨め付けに、土方の脳内翻訳ジェネレータが働く。「なんだテメェは?」と言ったニュアンスだろうか。応える様、煙草をくわえた侭で顔を起こす。
 土方の格好は湿ったシャツとズボンのみ。真選組である事を最も雄弁に示す隊服やその上着は纏っていないのだ。余程目端が利く訳でも無い限り、真選組の副長がこんな所で煙草を吹かしているなどと思いもすまい。
 「下のモンだ。悪ィがちっと一服させて貰ってた」
 銀時が見ていたら、お前らどっちもチンピラ堂に入ってますよとでもツッコんでいたかも知れない。そんな事を考えていると、男は「ああ」と頷いてみせた。
 「虎狼会のモンか。そう言やァ引っ越しとか言ってたな。この土砂降りの中大変なこったなァ」
 土方の服がなんとなく濡れているのをそう解釈してくれたらしい。男の少々同情的な、然しあからさまに『下』を見下す揶揄を込めた声音が笑って寄越す。
 こう言ったチンピラの寄せ集めの裏稼業めいた『ビジネス』は、大概大きなヤクザめいた組織が背後にある為、下っ端の構成員の入れ替わりも激しい。同じビルに入っている企業の人員だ、見覚えの無い人間として警戒される畏れも無きにしも非ずだったのだが、土方に懸念が無かったのはこの辺りの可能性を狙っての事だった。男の反応を見る限り、新入りの使いっ走りとでも思われている様だ。
 「しかしまァ急な話だったな。折角互いに近くて遣り取りが便利だったのに、残念でならねぇや。まぁ、引っ越しても贔屓にゃすっからよ、宜しく頼まァ」
 「ウチはお宅と違って優良企業だが、昨今の幕府の犬っころは鼻だきゃァ利きやがるからな」
 はは、と笑う二人の男を殴りたくなる衝動を堪え、土方は剣呑に嗤ってみせる。幕府の犬、は土方的には最大に近い暴言だ。日頃悪態としては市井でも散々に聞き慣れているだけに腹立たしい。
 「あァ、そうだな。尾を噛まれて切られちまう前に、いつでもケツ捲る準備だけはしといた方が良いぜ」
 「違いねェな!」
 笑い合いながら事務所へと去って行く二人の男の背を見送ると、不味くなった煙草を灰皿にトスして、三度取り出した煙草の箱を、ぐ、と力強く掴みながら土方は立ち上がった。犬歯で抜き取った煙草のフィルターを噛みながら「はン」と、かなり露骨に不機嫌極まりない表情を浮かべる。
 「お犬様からの死の宣告を楽しみにしてやがれ阿呆共が」
 下階の商売と、顧客名簿とを思い起こしながら、土方は確実な釣り針の手応えをそこに感じていた。全く、予期せぬ展開だと言うのに尾どころかケツごと叩き斬ってやれそうだと物騒に笑う。
 事務所の戸に貼りつけられた『鬼の目金融』と言う巫山戯た名前を脳内メモにしっかりと書き付けておく。
 鬼の目にも涙、と金を貸す意味の皮肉な名付けかも知れない。まあそんな由来はどうでも良い。
 生憎、此処にいる鬼には涙など無い事だけは確かだ。
 取り出した携帯電話の、慣れた短縮番号を叩く。
 
 *

 「おう、ご苦労さん、万事屋の兄ちゃん。片付けも随分進んだみてェだな」
 扉を開けてぞろぞろと事務所に入ってくる、小者感漂うチンピラ風の男が四人。傷や入れ墨で無駄に凄んでいる姿は真っ当な職業の人間とは到底言い難い。道を歩いているのに出会ったら目を逸らしたくなるレベルだ。
 雨でエンジン音などはよく聞こえなかったが、歩きで帰って来た風ではない。それともトラックは路地の入り口にでも停めてあるのだろうか。新八と神楽は恐らくそこだろうとは思うが、荷物の運び入れを待つ役割なのか戻って来る気配はない。
 「お早いお帰りですねぇ。掃除はそりゃもうバリバリと。バッチリと。こう言う片付けの依頼のお客さんって結構いましてねー。片付け方にコツとかあるんですよ」
 にこにこと愛想の良い作り笑顔で内心の冷や汗を呑み込んで、銀時は後ろ手に雑巾をそそくさと隠す。
 「ん?何してんだてめぇ、そりゃ何だ」
 「あ、いやこれはその」
 その不自然な動きに男の一人が眉尻を持ち上げた。本当に単純で良いと思いながら、銀時は態とらしい動きで執拗に雑巾を隠しながら後ろに下がろうとして、今まで自分の身体で隠していた床の水溜まりに足を滑らせる。
 「うわっ」
 「お、おい。大丈夫かい兄ちゃん」
 「なんだこりゃ、びしょ濡れじゃねぇか!」
 泡を食って転げたフリをするついでに椅子を押し出し、濡れた座面を彼らの視線から隠しつつ、「いやあ」と銀時は恐る恐る顔を上げてへらりと笑ってみせる。
 「すいませんね、休憩しようと茶ァ飲もうとしたら、その、延長コードに足引っかけちゃいまして……スグ片しますんで、ご勘弁を」
 置き去りの机の下から壁まで伸びたコードを指して、尤もに聞こえそうな事を説明する。へらりとした笑みも、依頼人の叱責を恐れるものと思わせる芝居だ。
 案の定男らは単純な脳ミソに加え、あからさまに自分達に恐れの様なものを抱いている(様に見える)銀時の腰の低い様に、機嫌良さそうに笑って寄越した。
 「もう引っ越す事務所だ、別にそんな気にしねーでも良いぜ」
 「仕事も順調みてぇだしな、ガキどももよく働いてくれてる。報酬はちょっと色つけてやるよ」
 「いやホントすいませんね。家財には傷とか一切つけてませんから。慎重に取り扱ってますから」
 (うわー単純)
 営業スマイル以上の笑顔で言う裏で思わず正直な感想が浮かぶ。勿論顔には毛ほども出さない。
 銀時とてこの連中の『職業』がマトモなものだとは思っていない。いないが、あからさまに法を犯している訳でもない連中だ。多分。
 少なくとも素人にそうと知られる様な事は一切していないだろう。銀時一人を事務所の片付けに残すなどと言う無造作さも、一般人が見て明らかに解って仕舞う様な問題のあるものが一切無い証明である。
 だが。だからと言って彼らが警察相手に友好的な感情を抱く謂われなどはない。偶さかの出来事とは言え、警察である土方を招き入れた銀時の行動はこの連中から見れば十分な『敵対』だ。違法な稼業の証拠を暴く為に送り込まれた人材(スパイ)扱いされても文句は言えない。
 そうなれば報酬がゼロになる危機は疎か、コンクリート+ドラム缶+江戸湾、と言うお約束のコースを辿らされかねない。
 因って、銀時のしなければならない事は一つ。依頼主に土方の存在を知られない様にする事だ。
 仮に土方が戻って来たとしても、隊服の最も特徴的な上着を纏っていない、佩刀すらしていない男を一目見て警察官だと見抜く可能性は高くはない。幾ら真選組の副長とは言え、末端のチンピラがいちいちその形を憶えている可能性も低いだろう。
 土方とて真選組の領分でもない仕事をわざわざ見つける程暇でも無ければ、些細な悪事も見逃せないなどと宣う正義感の強さがある訳でも無い筈だ。だから自分から喧嘩を売る様な真似はすまい、と思う。
 いざとなったら万事屋の臨時バイトだとでも言う心算だったが、そもそも複数人に気配の数の増えた部屋に無造作に戻って来る筈もあるまい。あの慎重な男がそんな無謀な真似をするとは思えない。
 土方がここに不在ならば、銀時が隠し通せば良いのはこの部屋に残された土方の痕跡だけだ。
 濡れた隊服の上着とベストは、机の上に置いた段ボールの中に押し込んでおいた。刀は──
 「……オイ万事屋。テメェ何してやがんだ」
 不意に差し挟まれた、妙によく通るその声に。男達は威嚇の気配でぐるりと。銀時は、
 (無謀な真似してくれやがったァァァァァ!!)
 絶叫は辛うじて堪えたが、引きつった顔で。それぞれ視線を巡らせる。
 「…おい兄ちゃん、どこのモンだい」
 事務所の入り口に何でも無い様に立っている土方は、不穏な気配を湛えつつ自分の前に立った男の一人をちらと一瞥し、訝しげな顔でくわえた煙草を上下に何度か揺らした。銀時の顔を見ながら男達を軽く指さす。
 それは銀時的翻訳で「取り込み中だったか?」と聞こえた。
 (ああそうですとも取り込み中だよ留守番の夫と浮気相手の情事に帰宅した奥さん乱入しちゃったくれェの取り込み中だよこの天然馬鹿警察がァァァ!!)
 脳内で絶叫する銀時の引きつりまくった顔を余所に、土方は胡乱げな顔で男たちを見回している。男らの風体から想像はついているのか、訝しげですら既に無い。
 幾ら馬鹿とは言え対人実戦には慣れている筈の男だ。連中が武器の様なものを所持している事ぐらいは察しているだろうが……、
 (いやそうじゃねぇどうするコレどうしようコレ!?どう誤魔化して切り抜ける?!バイトでしたって言うにも、俺の事全く他人事で万事屋とか呼んでくれちゃってるしィィ!!)
 「そこの」
 銀時の内心の絶叫は届く筈もなく。土方はそう言いながら軽く銀時の方を親指で指す。僅かの笑み。
 「知り合いみてェなモンだ」
 (いやソレ何の説明にもなってねェェ!?つーかテメェ涼しい面して俺を巻き込む気満々だろコノヤロー!!)
 「……本当かい万事屋さんよ。困るなぁ、あんたらの会社の従業員はガキ二名って聞いてたんだがねェ?部外者入れて貰っちゃァ、こっちも仕事柄色々あるかも知れないんでねぇ」
 「い、いやあの、ちょっと知り合いって言いますか、雨宿りとか煙草宿りとかそんな感じの」
 凄んでみせる男に怯えた訳ではないが、何とか穏便に済ます手段を模索する銀時の努力と苦労とを余所に、「はっ」と土方が笑い声を上げるのが聞こえた。
 挑発的な色の濃いその響きに、男たちがぎらりと殺気を滾らせた。距離を開けて土方を取り囲む様に立つ。
 (オイオイ…)
 犯罪の匂いでも嗅ぎ取ったのか、それとも単に暇なだけか。或いは雨の足止めに対するストレス発散…と言う可能性も有り得る、が。
 何で今日に限ってそんな喧嘩っ早いんだよ、と言う胸中のぼやきは直ぐに諦めに変わった。音を立てずに銀時はそっと立ち上がると、目測で土方の立つ位置までの距離を測る。じり、と自由にならない足へ少し体重移動し、密やかな息を吐く。大きく吐けないのが残念な溜息だ。
 そうする間にも、どう控えめに見ても堅気とは言い難い男らに囲まれた土方は、怖じけるどころか、ふ、と煙草の煙を吐き出し、剣呑な嗤いを浮かべてみせた。
 その表情に男達が寸時、気圧された様に互いを伺い見る。そんな彼らを一人一人ゆっくりと見遣った土方は、嘲りの濃い声を、形の良い唇から紡ぎ出す。
 「あァそうか。虎狼会。聞き覚えがあるたァ思ったが、強硬派攘夷党指定の虎牙党の傘下の一つか。対天人テロに三ヶ月前失敗し、下位組織にゃ指導者もいねェしで実質自然消滅の体になるだろうと棄て置かれたんだったな。どうせ真っ当に幕府に訴える気概も無ェ小者ばかりの遠吠えだが、こう集まられると耳障りなもんだ」
 はん、と鼻で笑いそうな勢いに、銀時は思わず苦笑を浮かべた。幾らこちらから注意を逸らす為に殊更に挑発的な態度と物言いを選んでいるとは言え、手前の領分となると本当にこの男は実に生き生きとして楽しそうに見えるから困る。
 そして、そんな土方の様を嫌いではない自分が一番困る。
 「面には憶えは無ェが、一応は攘夷浪士の端くれだろうがよ。天人様相手に頭下げて商売に勤しむたァ、落ちぶれ過ぎて泣けたもんだな?」
 「何だとてめぇ!」
 「オイ兄ちゃん、てめぇ一体ェ何モンだ?」
 あからさまな侮蔑の物言いに、男の一人が懐に手を突っ込んだ。対する土方は煙草を燻らせているだけの丸腰だ。その事からも男らは絶対的な優位に己があると思い込んでいる。到底退きはすまい。
 (イヤ退いた方が良いよ、その子ナントカに刃物だからね?鬼だからね?喧嘩っ早さだけは江戸随一の公務員だからね?一人チンピラ警察24時だからね?)
 こそこそと男らの死角を移動し、土方の立ち位置の斜め対角線上に移動した銀時の内心のツッコミというか忠告は残念ながら叶いそうにも届きそうにもない。
 「印籠でも出した方が良さそうな場面だが、生憎身分証は上着の中なんでな。悪ィが、」
 「誰だろうがこの際関係ねェな。俺らをここまで侮辱してくれたんだ、覚悟は出来てんだろうな?」
 「犯罪の証拠になる帳簿を、素人と一緒に残してく間抜けな連中はボキャブラリーまで貧弱みてェだな」
 やれやれと言った風に呟く土方の喉元に、突如無言で刃の先が向けられた。白木の柄に何の装飾も無い小太刀。自らの懐からそれを抜き放った男の一人に続く様に、二人が似た様な刃物を、もう一人は黒光りする拳銃を取り出した。
 (……え、何コレどこのヤクザ物のB級映画?Vシネ??)
 と、なるとオチも見え透いている。同じ様なことを思ったのか、拳銃に一瞬視線を走らせた土方の口の端がうんざりと下がるのが見える。
 「おっと、変な事は考えねぇ方が良いぜ。まあ兄ちゃんなら良い値がつk」
 喉に刃を向けていた男の言葉がそこで途切れた。ぱしん、と乾いた音を立てて、無造作に横に払った土方の左腕が小太刀ごと男の手を除け、それから一呼吸の間も空けずに、固められた右の拳が男の顔面にめり込んでいた。
 (南無三)
 鮮やか過ぎる不意打ち。余所に密かに祈って銀時は肩を竦めた。動き辛いことこの上ない足に手を当てて支えながら腰に手を置く。
 姿勢が大きく崩れるのを防ぐ為に体重は殆ど乗っていないが、不意打ちに加えて鼻っ柱への直撃。日頃隊士達を怒鳴りつけ渇を入れる、殴り胼胝の出来た拳だ。鼻骨が曲がるぐらいは致し方あるまい。何しろ、武器を出したが最後、このチンピラ顔負けの物騒なお巡りさんに『正当防衛』と言う大義名分を与えて仕舞ったのだから。
 「万事屋ァ!」
 「へいへい」
 続け様放たれる、隊服を纏っておらずとも変わらない鬼の副長の怒号にも似た声。お座なりに応じて、銀時は自らの片足に突っ込んで隠していた、土方の愛刀を取り出し投げ渡す。
 後ろ向きに傾ぐ男の横を通り過ぎた刀を、土方は利き腕で柄から受け取った。その侭腕を引き、逆の手で鞘を飛ばす。
 「てめぇっ、」
 後ろに吹き飛び机を巻き込んで倒れた男に、茫然としていた残りの連中の時間が漸く動き始める。だがもう遅い。
 鈴の音にも似た鞘走りの後、綺麗で物騒な鈍い銀色の刃が顕れた。
 それから澱みの全くない動きがまるで舞う様に閃いて。斬りかかろうとしていた男達が目を白黒とさせながら、己の手の中の得物から刃先が断ち割られている事に気付いてへたり込む。加減が無ければ腕ごと飛んでいた筈の軌跡は、最後に拳銃を持った男へと向けられ。
 「くっ、クソがァァ!!」
 自棄じみた声を上げた男は恐らくその瞬間になっても、何が起きたかを把握するには至っていなかっただろう。引き金を引いて、何の反応も手応えもそこに無い事に泡を食った様子で、かちかちと虚しく何度も指を動かしていたが、やがて、ぽろ、と、縦に割られた銃身が今更の様に床に落ちるのに茫然と目を見開く。
 抜刀とほぼ同時に土方が断ち切っていた事になど、今になっても理解出来なかったに違いない。己の手元に残された弾倉とグリップ部分のみになった銃を見つめ、呆けた様に瞬きを繰り返す男の眼前に、つい、と、さぞかし切れ味の良さそうな刃が突きつけられる。
 どうする?そう言外にはしない声に、男は銃…もとい、元拳銃だったものを取り落とし、脱力した様にへたり込んだ。
 「万事屋、テメェ何汚ェとこに隠してんだ。クリーニング代請求するぞ」
 「しゃーねーだろ、そんな長物咄嗟に隠せる場所が無かったんだ。大体お前なクリーニングってどうよ」
 ああ本当にナントカに刃物だ。雨に打たれて悄然としていた様とはまるで違う。
 小気味よい程に痛烈なそんな思いに晒されながら、銀時は段ボールに押し込んであった土方の、濡れて重たい隊服を引っ張り出した。適当に裏地を探って警察手帳を取り出すと、床に転がって呻いている最初の犠牲者もとい男の眼前に開いて突き出す。
 「はいチンピラ警察の御用改めですよー。大人しくホールドアップしねーとあの暴力警官に斬り殺された挙げ句江戸湾コンクリ詰めコースがお待ちかね」
 「するか阿呆天パ。こんな三下共ァどうでも良い。顧客リストに天人との癒着の疑惑が噂されてた幕臣の名前があったからな。釣りのついでの地引き網みてーなもんだ」
 ふん、と鼻息を吐いて言う土方に向け、銀時は警察手帳をぽいと放った。器用に片手でそれを受け取ると、土方は眼前で未だ呆けている男に改めて告げる。
 「御用改めである。真選組副長・土方十四郎だ。天人との違法取引及び人身売買の容疑で逮捕する」
 「し、真選組……??何でこんな所に…」
 先頃土方の言った通り、上が潰れた事で自然消滅する様なゴロツキやチンピラの集まりだ。棄て置かれていたのは事実に相違ない。ならず者全てを逮捕して回る程真選組も幕府も暇ではないのだ。
 だからこそまるきり油断していたに違いない突然の曰く『御用改め』は、今日の豪雨同様に正に青天の霹靂だったと言えよう。
 「雨宿りなんぞと勧めた、どこぞのお節介を恨むんだな」
 まあ件の幕臣とやらが罪科に問われた時には恐らく芋蔓式に掃討されていただろうとは思われるが。だがそれは当分先の話になる筈だった事だろう。思って銀時はやれやれと頭を掻きながら口を尖らせた。
 「ちょっと、涼しい面して一般市民巻き込むのやめてくんない?言っとくけど俺無関係だから。偶ッ々、偶然、軒先で捨て猫とか濡れ鼠とかそんなんが尾垂れてたからつい庇護欲的な何かがね?」
 「黙れボケ天パ。そんな事よりとっとと移転先とやらの住所を言え。依頼人(こいつら)から聞いてんだろ」
 「……っあー…、住所は直接は聞いてねェけど、神楽と新八なら現地に行ったくれェだし知ってんじゃねーかな。流石に移転先には残さねーだろうし、多分外のトラックに居ると思うけど」
 「ちっ。何処までも使えねぇ天パだな」
 「なぁ土方くんや、ちょっと君イロイロと辛辣過ぎませんか」
 ぶちぶちとこぼす銀時の抗議をさらりと無視し、土方は手帳を仕舞った手で携帯電話を取り出した。ずっと通話状態にしていたのか、何かを操作するでもなく耳に当てて口を開く。
 「だ、そうだ。万事屋のガキ連中から聞き出して来い。それから隊の半分はその移転先とやらに向かわせろ。何処かに必ず『商品』を保管している場所がある筈だ。救急待機させて最優先で探せ。あと山崎、テメェは件の幕臣の逮捕状用意しとけよ。
 こっちには準備が整い次第指揮官の号令で適当に突入して来い。二階は制圧済み、三階の金融業はこれから押さえる。…ああ、そうだ。階上(うえ)の金貸しも一枚噛んでる。恐らくは高利が嵩んで返済出来なかった客を虎狼会の伝で売り捌いてたんだろうよ」
 受話口の向こうから地味な悲鳴めいた制止が聞こえて来た様な気がするのは気の所為だろうか。携帯を再びポケットに突っ込んだ土方は、憮然とした顔を隠そうともしない銀時の方をちらと見て寄越した。向けられた視線の意味は、期待とも感謝とも趣を異にしたものであり、先頃までの悄然とした様子でも、物騒に嗤う風でもない。
 「あんま無理すんなや。手伝いは?」
 意味を量りかねたのは事実だが、場面的にはこう問うべきだろうと思い、無駄と半ば思いつつも一応銀時がそう口にすれば、案の定土方は「民間人を巻き込む訳には行かねェんでな」と、打てば響く様な声で返して来る。
 その民間人をさりげなく殺陣に組み込んでおいて言う台詞かと、喉まで出掛かったツッコミを呑み込んで、一筋縄では到底行きそうもない男の姿を銀時は見た。奇妙に合致した視線の間には意味も会話も無い。必要だろうか、と考えそうになるのを呑み込めば、自然と手は触れず届かずに折り畳まれる。
 まだ、届かない。届かせなければならない理由も衝動の正体も知れない。
 考えを持て余す徒労感。その狭間で銀時はふと思いつき、引っ越しの梱包に使っていた丈夫な紐を取り出した。せめて捕縛ぐらいしておこうと、座り込んだ男らに近付いて行く。彼らは真選組と言う言葉にすっかり怖じ気づいたのか、それとも少しでも抵抗を止めて罪科を軽減しようとでも言うのか、威勢を無くしてすっかり項垂れていた。抵抗は疎か棄て台詞も特にないので、さくさくと後ろ手に縛って行く。
 「……偶々、だ」
 ぽつりと落とされた声に振り返った銀時は眉を持ち上げた。
 「へ?」
 「俄雨に降られたのも、この汚ェビルの軒下を選んだのも、テメェに声掛けられたのも、顧客名簿が馬鹿みてェに残されてたのも、そん中に調査中の幕臣の名前があったのも、煙草買いに出た所で金貸し屋の悪辣さ加減を聞いたのも、間抜け面のゴロツキが虎狼会の名前漏らしたのも、全部」
 だから、真選組として礼は出ねェ。と短く言って寄越す、その表情が。
 真っ直ぐ見据えた顔の中で、唇だけが僅かに動いて紡いだその感情が。
 「……あ、いや。雨宿りって言いだしたのそもそも俺だしね?テメーがウキウキし始めた時点でなんかもう諦めてたし。うめぇ団子一週間分くらいで良いわ。あ、やっぱりパフェで」
 「オイ何勝手に要求しかもさりげなくハードル上げてんだ。報酬は出ねぇって言っ」
 「土方くんのポケットマネーで宜しく。捜査協力みたいな?俺はともかく新八や神楽までタダ働きってのはなー。流石に可哀想とか思わねーの?思うよね人として。未成年の少年少女がお腹空かせんのとか見過ごせないよね人として」
 「…………く」
 新八と神楽は純粋に働いていた筈だ。一応銀時もだが。そう思うと流石に無報酬と言う事に罪悪感を感じずにいられなかったのか。土方は口の端を下げて顎を引いた。言葉に詰まって暫し呻き、やがて、つい、と視線を逸らした。溜息を一つ。
 「〜…勘定方に、多少の捜査協力報酬が出ないか掛け合ってやる」
 「まあアイツらへの報酬はそれで良いけどよ。俺には?」
 ぽりぽりと首の後ろを掻きながら、堪えきれない笑みを呑み込んでへらりとした態度に変換して言う銀時を、訝しげな視線が容赦なく突き刺してくる。
 「あ?何でテメェだけ別になんだよ」
 「俺のは捜査協力じゃなくて、雨宿りの礼…的な?と言う訳で団子とかパフェ的なもの一食」
 「……」
 言いながら、立てた人差し指を軽く振れば、土方の視線は銀時の指先と、表情とを伺う様にじっと見据えて来る。
 その表情も、恐らくは内面に渦巻く感情も、先程のものと同じ。或いは今の彼の姿と同じ。『真選組の副長』をひととき脱いだ、土方自身の素のものだろうと言う、そんな確信を銀時は密かに得ていた。
 根拠は無い。答えも無い。
 濡れ鼠で項垂れていたのも、無造作に服を弛めていたのも、物騒に嗤っていたのも、刀を取り回していたのも。僅かの申し訳なさを滲ませて気まずそうに告げて寄越したのも。
 (ああこりゃ本格的にマズいかもなぁ…)
 全てが土方十四郎と言う男だと、今更の様にそんな事を知れただけだ。そしてそれは恐らく彼のほんの一部の、些細な面積しか占めない様なもので、もっと知れる様になるものはきっとある。──それを、知りたいと何処かで思い始めている。
 やがて、は、と一音だけの溜息と共に、地面に落とした鞘を拾い上げた土方は肩を竦めてみせた。
 「……時間があったら考えといてやる。テメェにだらだらたかられんのは御免だからな」
 鞘と刀とを別々に机の上に置くと、シャツをズボンの中に再び仕舞い、銀時に向けて無言で手を伸ばす。
 (…………ホント、酔狂だよなぁ。こんな重てェもんわざわざ好んで纏って)
 先程警察手帳を取り出す為に引っ張り出してあった、まだずぶ濡れで重たい隊服のベストと、上着とを、順番に手渡してやれば、慣れた手つきで(多少重そうではあったが)土方はそれらを纏い、ポケットから出したスカーフも器用に巻いて見せた。
 濡れて草臥れている筈の装束達は、土方がそれを纏った途端に凛と佇まい、意味を以てそこに具現化する。
 机の上の灰皿に短くなった煙草を棄て、新しい一本をくわえると、抜き身の侭の刀を取り上げて、しゃん、と振った。空気さえも斬れそうな心地の良い音が、纏った隊服が、土方の気配をたちまちに『真選組の副長』へと戻して仕舞う。
 「お仕事頑張れよ。真選組の鬼副長サン」
 「はっ。テメーに言われる迄も無ェ」
 通話からある程度間はあった筈だが、受話口の向こうの地味声を含む増援は案の定間に合わなかったらしい。三階の金融会社の面々の顔など拝んだ事も無かったが、絶好調に物騒な鬼の副長に白昼堂々しかも突然カチコミを食らう事を思えば、ちょっと同情的な意識を天井越しに上階へと向けたくもなる。
 とは言え、話を聞く限り人身売買に手を染めていた様な連中だ。同情も情状酌量の余地もあるまい。
 そうして一旦上を見上げた銀時が視線を下ろすと、そこには今にも立ち去ろうとする黒い背中が居た。
 濡れてはいるが、悄然とはしていない。
 手にした刃と同じ、真っ直ぐで美しい魂を乗せた形代。
 「土方」
 手は届きそうで、届かない。否、届かせたくないのかも知れない、曖昧な距離。
 未だ、指は折り畳んだ侭で、銀時は言う。
 「お礼期待して待ってっから」
 果たして、また先程までの『真選組の副長』ではない土方が振り返りはしないかと。そんな事を思いながら口にした言葉に、然し返るのはほんの僅かな息遣いだけで、言葉は何も無い。
 そうして土方の姿が廊下へと消えていった後。今の小さな吐息めいた音は、果たして笑ったものなのか、それとも吐き捨てただけのものなのかと、銀時がそんな事を考えながら窓の外へと視線をやれば。
 (……ああ。道理で良く聞こえた訳だ)
 雨はいつの間にか止み、空には晴れ間が差して来ていた。





共闘めいたお約束イベント的な感じ。

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