五月六日未明 春だと言うのに肌寒さを感じる夜だった。 桜の散る頃から段々と温められた大気は、月の終わり頃にはもうすっかりと初夏のそれへと転じており、動くと汗ばむ様な陽気がここ暫くの間続いていた。 そんな訳で陽が沈んだ後も気温は大して下がらず、寝入り端も暑いからと、銀時が冬用の布団を押し入れに仕舞ったのはそう前の話ではない。 冷えて感じる素足を夏用の、綿の少ない布団の中で擦り合わせながらその事を思い出して後悔する。急にこんなに冷えるのなら早まって冬布団を仕舞うのではなかったと、肌寒さに消されつつある眠気の下思った所で、不意に何か違和感を憶えた銀時はぱちりと目蓋を開いた。布団を押し退けるつもりで上体を起こすが、その身に掛け布団が触れる事は無く。 「……ってオイ」 深夜のほぼ真っ暗な室内。見遣れば払い除けた筈の布団の姿が見当たらない。布団は銀時の、震えて摺り合わせた足先にだけ引っ掛かっているのみで、残り半分以上は斜めに引っ張られて敷き布団の横へと伸びて丸まっている。 足先しか布団を被っていなければ、幾ら初夏に近い陽気とは言えそれは寒くもなろうものだ。冬布団を早々仕舞った己の判断に間違いがあった訳ではないと再確認してから、銀時は盛大に溜息をつくと布団端に伸びて見慣れぬ小山を形作っている掛け布団の端をぺろりとめくってみた。 「……なーにしてんのかな、土方くんは」 めくった薄い掛け布団の下、想像に違えない黒髪の男の寝顔を見下ろしながら思わず激しい脱力と共にそう言ってみるものの。対して眉を寄せて目を硬く瞑った土方は「ぐう」と、寝息とも呻き声ともつかぬ不明瞭な音を喉奥で鳴らすと、銀時の除けた布団を探し求める様に手でもぐもぐと目前の布団を掻き寄せながら身体を横に転がして仕舞った。再び布団に潜り込む様な籠城姿勢に、銀時は僅かばかり己の素足に残っていた掛け布団も奪われて頭を抱えた。 時刻は改めて時計を確認する迄も無いだろう、深夜だ。0時を回っているかどうかまでは解らないが回っていてもいなくても同じだ。他人の家を訪れる時刻としては些か非常識であると言わざるを得まい。眠っている家人の布団を奪い取って勝手に眠りこけるのは非常識以前の問題になるが。 薄暗い中だからよく解らなかったが、土方の恰好は洋装であった様に見えた。今日は非番では無かった筈だから、隊服だろう。当たりを付けて見回せば、銀時の想像した通り居間へ続く襖の前に黒地に銀縁の上着がぐんにゃりと、役割を失い死んだ生物の様に崩れ落ちているのが見つかった。その少し横には布地面積が少ない癖に固い生地のベストが続き、その上には白いスカーフが適当に放ってあった。 それらを纏っていた本体は、身を縛るそれら全てを粗方取り払った姿で、銀時から奪い取った薄い掛け布団に三日月型の蛹の様にくるまって寝息を立てている。 その様子から恐らく、深夜に仕事が終わった土方は、その侭万事屋に電話一つ寄越さず呼び鈴も鳴らさずに入って来て、銀時が眠っているのを見てその侭自分も寝ようと決め込んだのだろうとは知れた。と言うか他には無いだろう。 「…あのさぁ、何でお前そう唐突なの。今何時だと思ってんだよ。まぁ確かに暇なら来てくれとは言ったよ?言ったけどさぁ…、」 せめて事前に電話でも鳴らせば良いだろうと、薄い布団越しに土方の額のあった辺りを握った手の甲でこつりと小突いてみるが、内の土方からは何か答えや反応が寄越される事もなく、規則正しい寝息だけが返ってくる。 「……」 もうちょっと常識ってもんを、とぼやきかけた口を閉じると、後ろ頭をがりがりと掻いて銀時は嘆息した。浮かぶ文句は余りに今更で、陳腐で、そして些事であった。 仕事が終わって、暇と時間があったら出来れば来て欲しい。五月五日、『今日』の内に。 そう何日か前に、仕事中の土方に向けて言ったのは銀時の方だ。そうして『今日』。単に土方は口約束の履行を律儀にもしに来ただけだ。日付が変更しているのか、していないのかは問題では無い。多少非常識であろうが何だろうが、土方のその行動と心とは尊い。噛み砕いて言えば所謂ところの『デレ』だ。 そうなって来ると、今日はもう無理だろうと早々と布団に──半ば不貞寝の勢いで──潜って仕舞った銀時の方が悪く思えて来る始末だ。 「わぁったよ、わぁった。ひたすら眠ィのはよぉく解った。やっとの思いで仕事終わって来てみりゃ、銀さん気持ちよさそうに寝てんだもんな、八つ当たりぐらいしたくなるよな、うん解るよ」 やけくそじみた勢いで投げると、夏用の布団で出来た蛹から「ぐう」と再び、肯定とも否定とも相槌ともつかぬ不明瞭な音が返ってくる。 どうやら眠いのは間違いなさそうだが、完全に眠っていると言う訳でもないらしい。放っておけば三分とせずに眠りに落ちて仕舞いそうな様子ではあったが。 「そんな所じゃ身体も休まらねーだろ。ほれ、布団貸してやっから」 言って、土方の被っている布団を三分の一ほど引っ剥がすと、隙間から現れた黒髪の頭がもぞりと動いた。横倒しの顔に重たく被さっている前髪の隙間から、眉を寄せ片目蓋だけを持ち上げて、銀時の暴挙を迷惑そうに見上げる目が覗いている。 「ほれ」 再度促して敷き布団をとんとんと手で叩くと、目を伏せた土方は横着にも横たわった侭の体勢でずるずると、それこそ芋虫の様な動きで敷き布団の上へと乗り上がって来た。蛹どころかそれ以前だったらしい。 銀時が少し後ろに下がって開けてやったスペースに収まった所で、横着な芋虫みたいな物体は動きを止めた。掛け布団を掴んでいた手が疲れた様に離れて敷き布団のシーツの上にぽとりと倒れる。 それを許可と勝手に受け取り、銀時は土方の手放した掛け布団を引っ張って拡げると、二人の身体の上に掛けた。 横向きの土方の身体が布団の端をしっかりと自分の下に敷いて仕舞っている為、銀時の背中は半分以上が外に出て仕舞っているが、もう別に寒いとは感じられなくなっていたので無言で諦める。 「寒ィ…」 「はいはい」 半分以上譲られた布団の中だと言うのに、こちらは贅沢にもそんな事を抜かす恋人に溜息をついて、銀時は片腕を伸ばすと膝を寄せて丸まろうとしていた土方の身体を引っ張り寄せた。 銀時の胸元に抱き込まれる形になった土方は、重たげな目蓋の下から銀時の顔を見上げると、鼻を鳴らしてぽつりと言う。 「……オッさん臭ぇ…」 「ちったぁ我慢しやがれ、季節はずれの湯たんぽになってやろうって言う銀さんの優しさぐらい素直に受け取れや。あと言っとくけどおめーも似た様なもんだからね。俺がオッさん臭いって事はおめーもオッさん臭ェって言ってる様なもんだからね」 「何て言うか…てめぇの場合は精神的にオッさん臭ぇ」 もごもごとした調子でそんなよく解らない悪態を返すと、土方は猶も鼻を鳴らしながら、シーツの上に草臥れた投げられていた手を伸ばして銀時の胸倉を掴んだ。 「…………」 抱き込んだ、元蛹だか芋虫で、現在は一応は羽化して土方十四郎になっている物体をちらと見下ろして、銀時は決まり悪く視線を游がせた。抱き枕にしては些か大きくて固くて文句の多いそれは、銀時の夜着の胸を縋る様に掴んで鼻先を突っ込んだ姿勢で眠りの態勢に入ったらしい。 (〜ああもう…、) 抱き寄せた腕の下の体温や聞こえそうな距離の鼓動。漏れ聞こえる眠りの穏やかな息遣い。人肌は本能的に人を寂しく、そして恋しくさせる。況してやそれが久々に触れる恋人のものであれば猶更だ。 潰れる程に抱き締めて身体の上に乗り上がって、掬い上げた首元に吸い痕を残しながら口接けてやりたい。少しでも欲情を孕んだ声を漏らしたら、熱の籠もった眸で見上げられたら、もう煽られ止まれる自信は無い。 腕の下の温度と肉の手応え。存在感を否応なく意識させる穏やかな寝息。リアルでしかないそれらの質感と存在感とに負けじと、銀時は胸中で念仏を唱え始めた。 「………そう言や、」 やがて土方がぽつりと寝惚けたそんな声を上げたのは、念仏が途中で円周率になって電車の駅名になって更に百人一首へと変わった頃だった。 「『まだ』、今日だった」 心を無に、昔の歌人の句を憶え半分に辿っていた銀時の脳は、その言葉の指す意を上手く捉えられなかった。「へ?」と正直に困惑を示した一音を放てば、土方は目を閉じた侭で寝言とほぼ変わらない様な辿々しい調子で口を開いた。疑問に対する答えを寄越してくれたと言うよりは、単に言葉を、抗議をその侭続ける調子だ。 「てめぇが、来て欲しいっつったから、『今日』の内になる様に、朝から机に向かい続けて昼から駆けずり回って…、こんな時に限って総悟は上司に迷惑かかるトラブル持ち込んで来るし近藤さんはストーカーやってるし山崎は地味だし…、」 「いやそれいつもの事だよね。しかもどっちかっつーと後ろの二つは多分関係無いよね」 土方が沖田に遊ばれたり近藤に振り回されたりしているのは真選組では概ね日常の事だと言う。傍目既に明らかな事実だが、本人が以前酒の席で遠回しに愚痴っていたのだから間違いない。 別に近藤の所業を庇いたかった訳ではないが、自然と出た銀時の指摘を土方は珍しくも混ぜっ返しはせずに聞き流した。そんな気分では無かったのだと、続く言葉が答えて来る。 「………忙しかったし、つかれた」 それは恨み言と言うには辿々しくて力も無い。眠そうな目蓋を薄く開いてこぼした土方の言葉と共に感情を掬い取って、銀時は土方の背を抱いていた掌に少し力を込めて頷いた。 「……そうだよな。疲れたよな」 非常識な時間の訪いも、布団を奪い取る暴挙も、全ては。 「『今日』なんててめぇが無茶振りするから、こっちは疲れて眠ィってのに、」 「ありがとな」 銀時は微笑ましい様な穏やかな心地になって、腕の中で拗ねている土方を思いきり抱き締めてやりたくなった。だが、今、愚痴の最中にそんな事をすれば逆上した土方に噛み付かれるのは必至。思いは何かと吐き出させてやった方が良いのだ。 衝動を何とか堪えて、その代わりに掌で背中を慰撫する様にさすってやる。幸い土方が機嫌を損ねた様子はまだ無い。 仕事が終わって、暇と時間があったら出来れば来て欲しい。『今日』の内に。 そう、余り期待はせずに投げた銀時との、保証もないただの口約束を叶える為だ。 仕事を必死で終わらせて駆けつけて、然しそこで銀時は既に夢の世界。布団を奪い取って不貞寝するぐらいではまだ土方の溜飲は下がらなかったらしい。 そこでいきなり怒鳴って殴りかかって──或いは斬りかかって──来なくなった分、幾分か土方も進歩しているのかも知れない。単に疲れていてそんな気力も無かっただけかも知れないが。 「……………来てやったのに、」 珍しく素直に礼を言う銀時に面食らったのか、土方はむすりと顔を顰めて胸倉を掴む手に力を込めた。 これ殴られるやつかな?逆上と言うか羞恥的な何か由来で。 そんな予感に背筋を粟立たせた銀時は、土方が何か次の行動に移るより先に、柔和な笑みを作って背中をぽんぽんと優しく叩きながら言う。子供はぐずる前に宥めた方が早い。まあ真選組の副長は子供と言うか頑固で面倒でついでに言うと言葉より先に手が出がちな大人なのだが。 「ああ。だから『今日』来てくれてありがとな。スゲー嬉しい」 目を細めて極めて友好的に、そして素直にそうとどめの様に言ってやれば、胸元にふうと重たげな呼気が触れた。溜息をついたらしい。それも極めて大儀そうな質の。 「寝てた癖に」 「…まあそりゃ、こんな遅くなると思ってなかったし?けど、ちゃんと祝える様に酒用意して待ってたんだって。明日の晩にでもゆっくり飲むか」 言って、目前で俯く髪を撫でれば、鬱陶しそうに伸びて来た手に払い除けられた。子供扱いが行きすぎたかと内心冷や汗をかいた銀時の顔を、ゆっくりと見上げて来る土方の、剣呑に細められた目。 「……『今日』は?」 「ん?」 「酒は明日で良いが、それじゃあ今日、来た甲斐がねェ」 喧嘩の一歩手前の、互いに挑発の言葉を投げ合う、あの空気に少しだけ似ている、と銀時はにやけた笑みを刻みそうになる己の口元を何とか引き締めながら、そんな事を考える。 単なる売り言葉に買い言葉の応酬では無く、相手の様子を伺いながら、効果的と思われる挑発を投げて煽り合う前哨戦だ。それに言い負かされるか手を上げそうになれば、結果的に喧嘩に勝ってもこの戦には負けた事になる。銀時と土方との二人の間だけが解る、そんな一種のコミニュケーションであって遊びだ。 そのココロは、相手を本気にさせた方が勝ち、である。 目を細めた土方の唇が緩やかな弧を描いて笑う。煽る気満々だなこいつ、と即座に判断した銀時は、然し飽く迄平静を装って、全然困っていない困り顔を向けてやる。 「………あー。…うん。つーか良いのか?今からだといやらし系のお祝いになるけど」 望みを露骨に口にしてやれば、土方はふんと鼻を鳴らした。照れているのか、単に面白くなかっただけなのかは解らないが。 「明日以降でもどうせそうなるんだろうが。それならちゃんと『今日』に祝えよ」 言って、こつんと胸元を小突いてみせる土方の拳へと軽い笑み一つを向けてやってから、銀時は身体を起こした。努めて紳士的な動作で土方の肩を押すと、抵抗する事もなく土方は布団の上に背を転がして仰向けに横たわる。 猶も煽る気なのか、伸びて来た手が頬をするりと撫でて来るのを捕まえて、銀時は表情には出さずに嘆息した。誕生日なのだし、負けを一つぐらいは呉れてやろうとあっさり白旗を上げながら、近づけた顔に逆らわず反らした土方の喉元へと戯れに歯を立ててやる。戯れの勝敗よりも切迫した下半身事情の方が重要だ。 それを、獰猛な獣でもいなせた様に受け取ったのか、歯の当たった薄い皮膚の下で土方が忍び笑うのが伝わって来た。 くっきりと浮き出た鎖骨を甘噛みし、震える膚に舌を這わせながら、銀時は様々な柵全てを自ら取り払った土方の、最後に残された白いシャツの釦を外しながら言う。 「じゃ、誕生日プレゼントは銀さんのマグナム的な何かですって感じで」 「具体的に言うんじゃねぇよ、頭悪ィ台詞過ぎだろそれ。…まあ、貰えるもんなら貰ってやるよ」 我ながらセンスが無い、と思った通り、土方にとっても評価は似た様なものだったらしい。取り敢えず拒絶の言葉は無かったので、及第点と言った所か。 「だから、」と一旦何かを言い淀む様に呟くと、土方は腕を伸ばして銀時の頭髪へと手を触れさせて来た。促されて一旦上体を起こすと、土方は更に銀時の後頭部を引き寄せようとしてきた。 口接ける、寸前で横へ落ちて、耳元で小さな声が熱い息遣いと共に囁く。 「早く、寄越せ」 熱の籠もった声に潜むのは、ある種の切実さを以て訴える明け透けな欲情の色。 煽って煽られたのだからこれは果たして引き分けだろうか。 そんな事を、熱に飲まれる寸前の脳で考えながら、銀時は土方の身体を思いきり抱き締めて掬い上げたその首元に吸い付き、熱い呼気を吐く唇を塞いでいた。 誕生日おめでとう、なんて野暮な事は今更真っ当にも睦言でも言うつもりはない。ただせめてこの想いが、いつもの行為の中に何か色を付けながら土方の裡に残れば良いと思う。 今年は真っ当ぽく(…?)祝って貰う事に。おめでとう。 遅刻して落ち込んでたら先に寝てたんで、落ち込みから一気に怒りにシフトした模様。 |