だから愚かな恋はなつかしい / 9



 ひとけの無い夜の路地で、ぽかりと夜空に空いた穴の様な月ひとつを背負った男は立っていた。
 ……否。待っていた、と言うべきなのか。
 慌てて駆け出した土方の焦燥を裏切って、銀時の姿は飲み屋から1ブロックも離れていない薄暗い路地に在った。
 建物の裏側同士が向かい合った細い路地は、申し合わせた様に静かで、酔っ払いは疎か野良猫の気配ひとつさえ無い。隘路の入り口に背を向けて無言で佇んでいる銀時の姿を見て土方は、まるで待ち合わせか何かの様だと下らない事を考えながら足を止めた。そそくさと店を後にした癖、逃げも隠れもせず立ち尽くす背は、まるで見つかる事を期待していた風ですらある。
 駈けて来て立ち止まった土方の、足音にも気配にもとうに気付いている筈だ。静かな道を駆ける音などどうしたって耳障りだ。気付かない理由がない。
 見つかる事が必然であっても、振り向く事なく積極的に関わろうとする気は無いのか、白い着物の背は押し黙って動かない。何も言わず、身じろぎもせず佇むその背こそ雄弁な拒絶の表れの様で、そこに一歩を踏み入るのに土方は若干躊躇した。
 見つかり易い所で待っていた様な姿。然し逃げも向き合いもしない背。銀時の意図が知れず、路地裏にはただ土方の困惑だけが取り残されている。
 「万事屋」
 それでも結局は。悔いを募らせ、何か誤りに似た感情を引き出そうとする頭痛の狭間に揺られながらも、土方は動かない銀時の背へと一歩、近付いた。
 銀時の背中が一瞬だけぴくりと震える。やはり聞こえていない訳でも気付いていない訳でも無い様だ。
 また一歩。銀時は次には唸る様な息を吐いてかぶりを振ると、力無い動作で天を仰いだ。
 釣られて見上げた空では、狭い夜空と小さな満月が見下ろして来ているが、それだけだ。銀時がその空に何を祈っているのかそれとも嘆いているのか、或いは願っているのかなど、解りそうもない。
 三歩目で止まって、土方はそっと己の胸に手を当てた。嘗てここに咲いて散らせた恋情と同じで、この再びの情動も忘れて諦めるつもりでいた。つもりで、いる。
 それが苦しいと思ったのは、上手く薄められなくなったのは、銀時もまた同じ様な事をしようとしているからだと気付いて仕舞ったからだ。
 その癖踏み込むのを途中で已めて、已めながらも恨みがましい目で見て来るのだ。どう言う料簡なのだと言ってやりたい様な酷く腹の立つ思いも湧こうものだ。
 (……俺は、腹が立ったからこいつを追い掛けたのか?)
 寸時そう思って顔を顰める。怒りか惜しみか、どちらが衝動の原因であったとしても確かに腹は立つ。かと言ってそれを槍玉に挙げて問い詰めて喧嘩をする気にはなれない。
 「……万事屋」
 二度目に掛けた声は、胸の奥から這い上がる息苦しさに押されて少し濁った。何だか情けなくて泣きそうな声だと思って益々苛立つ。
 喧嘩をしたい訳ではない。柔らかい対応を見せてはそれを悔いる様な顔をして、挙げ句に逃げる様に席を立った男には確かに腹が立った。だが。
 (いつも、そうして寸前で手を引っ込めて逃げる、それが腹が立って──、それで?)
 何も言わぬ銀時の背を見ると、出所の知れぬ焦燥を憶えずにいられない。今手を伸ばさねば、はっきりさせなければきっと悔いるだけなのだろうと言う、その躊躇いは紛れもなく焦燥であって衝動であった。
 「……どうすんの」
 どうすればいいのか。土方の裡の問いにまるで重ねる様に、銀時の背がぽつりと観念した様に呟くのが聞こえる。それは純粋に疑問を口にしたと言うより、何かつまらない事実でも読み上げる時の様な声で、土方は激しい苛立ちを憶えて奥歯を噛み締めた。
 「…っ、どうすんの、はてめぇだろうが。手前ェの方から逃げてやがんのに、いちいち恨みがましい目で見やがって……」
 軋って掠れそうな土方の声に、銀時は肩を軽く上下させる事で応えた。肯定か否定かのはっきりとしない、ただ草臥れた様な動作と声とが続けられる。
 「いや、おめーの方だよ、土方。俺ァ何遍も距離を取って来たつもりだったのに、その間を、偶然の手伝いもあるだろうが、手前ェから詰めて来てんだから」
 「っな、」
 じゃなきゃわざわざ追い掛けてなんざ来ねェだろう?と何処か嘲弄の色濃い言い種で付け足す銀時に、土方は咄嗟に浮かびかけた下手くそな反論を寸での所で飲み込んだ。ここで、違う、と言い返すのは簡単だが、言葉と行動とを否定出来る様な要素が己に何も無いと──図星であると気付いて仕舞った。
 己からは決して距離を詰めない癖に、関心を寄せる事は已めない、そんな銀時の態度に腹が立っていたのは事実だ。腹が立って、それでも気にする事を已めなかったのは、己の方だ。
 棄てようとしている恋情が、然し失われる事は厭だ。叶うなら諦めるべきだと、近藤と言う大将以上に護りたいものなど不要なのだと、幾度と無くそう言い聞かせて来た筈だと言うのに。
 (最後の、最後で、手を引けないのは──、)
 諦めて埋葬するには育ち過ぎた恋と、根付き過ぎた存在感とが苦しい。
 諦めようとしている、銀時の苦しげな表情が、苦しい。
 叶う愚かな恋を、踏みにじって摘み取って棄てる、その為の幾つもの言い訳が。
 「てめぇ、が、勝手に諦めてるだけだろうが…!俺ァ、」
 棄てるにも薄めるにも遅すぎた想いの成れの果てが、恐らく互いに苦しいものだったから、銀時は手を引こうとしたのだろう。
 土方は、自分の意思とは無関係に行われたその結論に腹が立ったのだ。身勝手なものだとは思う。自分から棄てようとするのは良くて、銀時に棄てさせるのは厭だ、など。
 「俺は…っ、てめぇの事が、」
 これが誤りになろうが過ちになろうが。そうやって苦しみの果てに希釈され摩耗し消えて行くと言うのは、消されて行くと言うのは、我慢がならない。この男の裡で、痛みや無為と共に消されるのだけは、厭だ。
 路地裏にずかずかと踏み込んで、土方は目前の銀時の背中に向けて息を吸った。
 (苦しいのは、諦めなければならねぇと言い聞かせながらもそれが出来ねぇのは、諦めが結局は悪いのは、てめぇだけだと思うな、)
 これは自棄だろうか。何故か泣きそうな情けない心地でそう思って、土方が己の想いを顕わにすべく口を開き掛けたその時。巌の様に佇んでいた眼前の銀時の背がゆっくりと振り向いた。
 遠い街灯と月明かりひとつ。その下で紛い物の様に耿る銀髪と、酷く遠い彼岸から睥睨する様な眼差し。口元は鷹揚な笑みを湛えながら歪んで、泣いている様にも笑っている様にも見えた。
 その眸に、土方の姿は映っているが、然し映っていない。彼の眼差しはただ優しく、遠い幻想を、彼以外の誰もが知らぬ様なものを見つめている。
 土方は不意に酷い脱力感を憶えてその場にへたり込みそうになった。
 この眸が見ているものは一体何なのだろう。
 向いているのは確かに土方十四郎と言うこの人間だと言うのに、それを通り越した遙かな何かを、戻らぬ何かを、銀時は此処に透かし見ているのだ。
 磨り減って、磨り減って、平坦になった感情で、然しそこに惹かれて已まない憧憬がある事を知っているから、目を逸らす事が出来ない。そんな苦しいばかりのものを。
 ずきり、と頭痛が鼓動と共に増して行く。銀時の歪んだ笑みがゆっくりと何かの意思を持って動き出そうとするのに、何故か酷い忌避感を憶える。やめてくれ、と声にならない何かが叫んでいるのが聞こえた気がした。
 
 「お前さ。一体何度同じ事を繰り返すの?」
 
 激しさを増して行く頭痛の中、放たれたそんな言葉に土方は、この感情を抱えた己が身が、絶望の泥濘に沈んで腐り朽ち行く様などうしようもない倦怠を感じていた。
 それは恐らく、意こそ違えど、紛れもない後悔だったのだろう。
 触れてはならぬものを、届かせてはならぬ手を、伸ばしたその結果の過ち。或いは愚昧故の必然。
 銀時は苦しげに曖昧に、然し晴れやかに口を歪めて笑う。嘲笑を向けたのはきっと、己と土方と両方にだ。
 意味も、訳も解らない。ただ、きっとこれは悔いで、絶望なのだとは解る。解るしかなかった。銀時の形作った表情がそうであったから。紡ぐ言葉がそうであったから。描く感情がそうであったから。
 「最初は三週間かかった。次は二週間と少し。今回はたったの二日。段々短くなってるんだけど、次は会った直後?」
 意味は、解らない。ただ、言葉を紡ぐ銀時こそが苦しそうにしている様子に、土方は──本来なら訳の解らない憤慨に声を上げていた筈だと思うのに、開いた唇は役立たずに成り果て、何故か誰何の言葉一つ出そうとはしてくれなかった。ただ、どんどん酷さを増す頭痛の合間に、得も知れぬ焦燥と不安とが涌いて止まない。
 この男は一体何を言っているのだろうか。この胸の底を冷やす畏れは一体何なのだろうか。
 ただの、分かり易い意地っ張りの二人の間に落ちた、不可避の恋情と言うだけでは無い、何かが銀時の裡には在る。それだけは解る。──だが、それだけしか解らない。
 「……え…?」
 何かを勘違い、或いは違えて仕舞った様な愚かの悔いが沸き起こる口中からは、苦々しい、理解出来ないと言う呻きに似た声しか出て来ない。
 そんな土方の困惑を前にして、銀時はまたあの、彼岸に佇む死者の様な遠い眸をした。疲労に老成したその眼差しの中、今度はその眸は確かに今、目の前に居る土方の事を見ていた。
 目前で、何も解らずただ戸惑うばかりの男の、痛みを痛みと知る事も出来ぬ今の為体を、見ていた。
 「何、言って、」
 乾いた唇が紡いだのは余りに間の抜けた力ない言葉。否定の役にも肯定の意にもならないそれは空々しく夜の中へと落ちて消える。
 鼓動の度に増す頭の痛みが、理性的な思考を遮る。解らぬ筈のそれを解り易い戯言として取り除く事も出来ず、全て呑み込んでは全て融かせずに積もって嵩を上げて行く。
 溺れそうな意識の濁った吹き溜まりに足を取られ、ただ茫然と喘ぐ土方に向けて銀時はゆっくりと近付いて、そしてその横を通り過ぎた。
 「……なぁ。俺もさ、結構辛ェんだよ。何度も忘れられるの」
 残されたそんな言葉の意を、追う事も掴む事も出来ない侭、遠ざからない筈の足音を何処かで聞きながら、土方はその場に力なく膝をついた。
 何を言っているのか。訳の解らない事ばかり。酔っ払いの戯言か。浮かぶ数々の楽観的な可能性は、白々しくも否定を待ってぐるぐると土方の裡で回り続けている。行く宛が無いから、凝り続けていて苦しい。
 解らぬ筈の事たちは、然し全て銀時の表情一つに明確な解答を示している。ただそれを、土方だけが知る事が出来ない。この、土方(自分)だけは知る事が出来ない。
 激しい頭痛が千々に思考を乱す。多分痛い、多分苦しい、多分何かを違えて、多分何かを知らずに居る。
 銀時が背後で、また天を仰いだ。きっと酷く苦しげなその表情の、眸の先の意味を追いたくて、土方も夜空を仰いだ。
 矢張り、何も見えなかった。そこに乗せた嘆きも願いも、何も。