秘すれば花 / 16



 夢などと言うものはどうしたって手前勝手で、望む望まないに限らず様々な光景を描いて見せつける癖、醒める時は一瞬で全てを無かった事にして仕舞うものだ。記憶に嘘偽りが無くとも、不確かな体験はそれを現実と思い違える様な事は無い。……決して、無い。
 銀時にとって──否、恐らくは土方にとっても、誰にとってもそれは常識的に頭にある事だった。具体的にはそう言った経験則で、夢と言うのは『そう言うものだ』と知っている。
 夢は醒めて終わる。現実では無いから消えて終わる。
 だが、それでも『夢』でしか得られないものを欲すると言うのなら夢に添うしか無い。どうした所で迫る、醒めるまでの時間に怯えながら。
 そして現実は『夢』とは違う。夢ではないから、『夢』の痕に迂遠を見つめながらただ過ごす。
 今なら少し解る気がした。醒めた夢に痛みを憶えて、現実で歩き出そうと決意した今の銀時にならば、解る気がした。
 『夢』を見ようと、夢の中の隣席へと腰を下ろしたあの時の土方の気持ちが。
 きっとこの想像は違えていない。きっとこの想いは誤っていまい。
 だから銀時は迷わず己の手を伸ばした。まるで酷い悪夢を見た時の様な表情をして、目を見開きこちらを力なく見上げる土方に向けて。
 あの時彼がそうした様に。
 
 *
 
 目が醒める。本来であれば爽やかな心地をもたらした筈だっただろう朝の白い光も、寝覚めの酷い気分の前では自らに害為すものにしかならない。まるで全てを暴く様な暴力的なそんな陽光に晒されながら土方は気分の悪さに咳き込む様にしてえづいた。それでも去らない不快感に胃の底が抗議を訴え痙攣する。
 嫌な汗。冷える背筋。乾く喉に貼り付く不快な、不快な心地。
 身体を丸める。布団を五指で強く掴んで、その衝動にただ堪える。
 「………」
 寝覚めはいつも悪い。ここの所ずっと、最悪だ。夢見の悪さに至っては一級品と言っても良い。
 夢の中で土方の前にはいつも銀髪の男が居る。愚かしくも焦がれて仕舞ったその男の事を、そこに抱いた恋らしき感情を、土方はただ忘れる事、棄てる事だけ考えて生きていた筈だった。
 或いは、だから、なのか。
 夢の中のその男は、土方の感情など無視して身勝手に振る舞う。今まで溜めた鬱屈を何か晴らそうとでも言う様に。そしていつも、身体を重ねて心を通わせて──醒めて、消える。
 そんな、土方が本来最も忌避したかった筈の関係性を『夢』に見て、最悪な自己嫌悪の中で目覚める。全く以て酷い悪夢としか言い様が無い。
 土方の見立てでは銀時の夢はもう薄れていた。だからもう、銀時を『夢』から呼び起こすと言った事はしていない。銀時が実際に起きて動き回っているかどうかは、心配ならば後で山崎にでも調べさせれば良いだろう。
 だがその心配は恐らくもう無い。土方の暴露した『夢』の話を訊いて、銀時は自ら目を醒ましたのだ。彼がもうあの飲み屋の夢で、隣席を空けて誰かの訪れを待つ事はきっと、無い。
 他人の夢に踏み入る様な真似はもう二度としたくないと土方はその時心底に思った。巻き込まれた民間人を救う責を負わなければならないと言う尤もな理由でも無ければ、誰だって好きこのんで他人のプライバシーを暴き立て覗き見る様な真似などしたくはない筈だ。
 土方にとってはその行為自体既に悪夢の様なものだったと言うのに、そこに己の魔が差した。意に添う『夢』の形をして土方はその茶番を享受し、挙げ句に流されると言う卑怯な思考放棄をして『夢』を見る事を己に赦したのだ。
 目覚めてもずっと付きまとう、その事に対する激しい自己嫌悪はそれからずっと、毎日土方の夢を悪夢で蝕んで責め立て続けている。
 『夢』を望んで仕舞ったのが悪かったのか。己の心をそこで容易く裏切ったから悪かったのか。
 ……解らない。幾ら考えたとして答えなどきっと出やしないのだ。
 どれだけ自己嫌悪に苛まれようと、己の心に手酷く裏切られようと、一度見た『夢』は、叶えられた仮初めの茶番は、甘いのだ。その味を知れば忘れられない程に。酩酊し意思を易々砕いて舌の裏に宿っては、後悔と嫌悪とを吐き出すその裏で甘美に微笑む。
 「………無様な、もんだ」
 ぽつりと落ちた言葉は乾ききって意味を持たずに転がる。最早幾度も繰り返した自己嫌悪の感情は、土方に疲弊しかもたらしてはいなかった。激しい気性の後悔はたったの数日で失せ、後は惰性の様に己を罵倒しその無意味さに失望を知るばかり。
 そしてそんな感情の波濤さえも、寄せて返す内に段々と鎮まり途絶えて行くのだ。
 繰り返すと罪を罪と思えなくなるのと同じ様にして、やがては失望や絶望にさえも飽食する。そうして疲弊し続けた心がどうなって仕舞うのかなど土方には解らない。
 ただ、どこまで慣れたとしても飽いたとしても、磨り減ったこの感情の訴える想いはなにひとつ変わらない。坂田銀時に抱いた恋情が見せ続ける『夢』を、或いは悪夢を、拒んで、無いものにして仕舞おうとは、今更どうした所で思えやしない。
 『夢』の事だからと、何れは棄てられると、そう思っていたのに。
 一度ここに根ざしたものを抜いて棄てるには途方もない痛みを伴うのだと、そう知った時には遅かったのだ。
 「……すまねぇ、万事屋」
 こんなものを無理矢理押しつけて。
 醒めれば終わるだけの下らない『夢』を身勝手に願って。
 それでも俺は、これをどうしたって棄てられそうもないんだ。
 悪夢に飽いても、消えてくれそうにないんだ。
 (夜毎最低な想いを味わったとしても、朝目覚める度に最悪な気分を憶えたとしても、)
 布団に起こした半身を折り曲げて、土方は迫る嘔吐感を堪えて笑った。全く以て見る悪夢に似つかわしくない表情だと己で思う。
 そう──幾度繰り返した所で、笑みは消えない。知っている。解っている。一度溺れたが最後、死ぬまでそこに居座り苛み続けるのだ。
 土方は目を硬く瞑った。願わくばどうか消えてはくれないかと強く思う。夢か、それとも『夢』か。或いはそれを願った弱い己自身の心か。
 (棄てられねぇって事は──終わらねぇって事だ。この酷ェ最低な悪夢は、俺が諦めるまできっと続く)
 それは夢と言う現象に対しては余りに荒唐無稽な発想だったが、最も納得のいく話の様に思えた。
 だから『夢』を見続けるのだ。夜毎朝毎に愚かな苦悩を繰り返す、そんな夢を。
 「諦めるまで、か」
 もう一度諳んじて忍び笑う。無理だろう。それが出来たらとっくにしている。出来なかったからこんな無為の時をこうして過ごし続けているのだから。
 「……それとも、いつかは諦めがつく様になれんのか」
 悪夢に揺すられる良心を、罪悪感を、全て摩耗し尽くしたらその先に、終わる時が、、──
 それは畏れだったのか、それとも誘惑だったのか。
 然しその答えが出るより先に、突如鋭い音と共に眩しい光が差し込んで来た。
 「っく、そ…、やっと見つけたぞ、このバカヤローが!ほんっっっとよく、辿り着いたよ俺!」
 同時に響いた声に土方は思わず顔を起こす。見れば、縁側の障子が勢いよく左右に開かれている。部屋に入る目的だとしてもこんなに開けないだろうと言う程の外との大きな狭間、そこから差し込む朝の白々とした陽光に目を眇めて見れば、その中に薄く今にも消えそうな銀の色が見えた。
 音の正体は障子を思いきり開けた時のものだ、と土方はどこか緩慢な思考で考え、次の瞬間にはぽかんと目を見開いた。
 何故屯所にこの男が居るのだ。何故こんな時間に、何故。何故?
 「夢を自覚すりゃ良いとか訳わかんねぇよ、何の哲学だよそれ。なんでオメーこんな器用な事してられた癖に手前ェ自身にもうちょい器用になれねぇんだよ」
 はあ、と大きな溜息。それが酷く己を責める様な響きに取れて、土方は思わず身を竦ませた。そうでなくともあのどうしようもない悪夢の後では、どうしたってこの男に真っ向から相対出来る気などしない。
 露骨に浮かべた忌避の表情で見上げた先、障子に両手をかけて息を切らせていた銀時は、辺りを見回してから手を伸ばしその場に膝を付いた。身を乗り出し顔が近付く。
 「って言うか時間無さそうだな。面倒くせェから手っ取り早く行くぞ」
 「は、」
 上げ掛けた言葉は形になる前に消えた。何故ならば、それを発するべきだった土方の唇は銀時のそれに塞がれていたからだ。
 「?」
 遅れて疑問符が追いつく。ぱちり、と音のしそうな瞬きの後、土方は目前と言うには近すぎて最早ピントも合わない男の顔を理解出来ぬ侭に見つめ返す。
 否、理解は出来ていたからこそ困惑した。己の憶えに従えば、土方と、己の知る坂田銀時と言う男とはこんな行為をする関係性には無い筈だ、と。『夢』の中でならまだしも、現実では睨み合って喧嘩をして忌々しげに互いを見る様な、そんな相手だった筈だ。
 ではこれは夢なのか。それとも『夢』なのか。そもそもどこからが夢だったのか。
 「てめぇは、夢、か…?」
 思わず漏れたそんな言葉の通りに、まるで夢を見る目でもしていたのか。唇を離した至近距離で、銀時は土方の両頬を掌で挟み込んで来た。じっと目を覗き込む様にして言う。
 「生憎だが違ェよ。夢の俺ばっか見てねェで、好い加減に現実の俺をちゃんと見に来やがれ。だからとっとと目ェ醒まして戻って来いや」
 「…………」
 今度は理解が追いつかなかった。土方は首を傾げながら銀時の姿を見返した。至近の距離で、ここに横たわった彼我の距離はどの程度なのだろうかと埒もない事をぼんやりと考え、困惑を顕わにその顔を見上げる。
 見上げた男の顔は、土方の今までに見た事のない様な表情をしていた。忌々しげな顔ではなく、親しげに笑う顔でも、情に惑い熱に浮かされた雄の顔でもなく、慕わしげな中に切望する様な想いを抱え必死になってそれを飲んだ、苦しげな表情。
 記憶にしか再現する元の無い、土方の見ている夢の中では創られようもない形。
 ではこれは現実なのか。──当然だ。朝に目覚めたのだから。
 だが、現実ならばどうして銀時がこんな時間にこんな場所に居るのか。
 「この侭醒めるにしても已めるにしても納得するにしても、お互い夢からもう醒めようじゃねェか」
 そんな貌をして、その男は静かにそう告げて。
 そして、何かから醒める様に突如としてその場から消えたのだった。
 
 目の当たりにして、土方は不意に悟る。
 繰り返した悪夢、抜け出せない感情の檻、茶番の様に続く悪夢と目覚めと苦悩とで出来たこの世界の正体を。
 理解した瞬間に醒めた、銀時の見ていた飲み屋での夢と全く同じその本質を。
 これは『夢』なのだと。
 否。夢なのだと。







  :